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知っとく健康コラム

近代土佐ミルク人物伝ージョン万次郎(土佐弁)2004/03/23

とっと前に日本人と牛乳の歴史について書かいてもろうたねえ。覚えちゅうろうか。奈良時代の昔から日本人はミルクにお世話になりよったがよよ。けんど、鎌倉室町の時代はミルクにとっても「暗黒の中世」で、江戸時代の8代将軍吉宗の頃まで積極的にミルクを利用するらあいうこたあめっそう無かった。

明治維新の頃の西洋化の影響で、ぴっとづつ利用されるようになってきて、今では食生活に欠かせん大切な食品になっちょらあねえ。たいちゃなもんぢゃ。

ほんで、幕末明治からこっちの、土佐の国とミルクとの関わりについてはめっそ知られちゃあせんと思うき、今日はあしがそのへんのところを述べちゃろうと思いゆうがよ。

ジョン万次郎とミルクの関わり

まずはご存知「ジョン万次郎」とミルクの関わりから初めろうかねえ。

高知の人やったら「ジョン万次郎」のことばあは知っちゅうろう。万次郎は1827年、足摺岬のすんぐそばの中ノ浜村で漁師の子に生まれたがよ。15才の時にカツヲを釣りに出ちょった時に遭難して漂流、仲間5人と一緒にたどりついた無人島で生活しゆううちにアメリカの捕鯨船に拾われた人物よねえ。その捕鯨船のホイットフィールド船長に可愛がられてアメリカへ連れていってもらい、先進的な学校教育まで受けらいてもろうた運のえい人物ぢゃ。

万次郎はペリーが浦賀へ来た前の年に日本へ帰っちょったもんぢゃき、西洋の事情に通じちゅう、技術は勉強しちゅう、教養は身につけちゅういうことで幕府に重宝されて、幕末の日本で大活躍したがよよ。勝海舟の咸臨丸にも通訳で乗りこんじょったがは有名よよ。

余談やけんど、万次郎の西洋の話を土佐の文人画家「河田小龍」が聞き書きして、その知識を近所に住みよった郷士「坂本龍馬」に伝え、そこから歴史が始まったのであります。

ジョン万次郎とミルクの関わり

さてさて本題。

ジョン万次郎は、そんなこんなで、西洋風にミルクを食した近世末期近代初期最初の日本人になったがよよ。本人が望むと望まんに関係のうにね。ここでまず、肉に出会うた時の本人の述懐をひまわり太郎脚色で現代土佐弁に翻訳してみちゃおか。

「助けられた船で牛とか豚とかを飼いよったがを見た日にはあきれが天向いたねえ、まっこと。食料にするがやと。なんぼ言うたち。アシらあはそんなこたあようせなあのう。日本でケダモノ食べよったら「村八分」ぢゃ。船で豚を屠殺するがを見て、異人の心は「鬼」ぢゃと思うたぞね、ホンマ。アシらあはびびりこんで、毎日ただもん神仏に祈りよったわねえ。ほいたところがある日その四つ足が食卓に出て来ちゅうぢゃいか。これがどうなりゃあ。メッタメリヤスメリケン粉ぢゃ。けんど腹は減るし他に食うもんは無いし、しょうことなしに目をつぶって口へ入れてみたがよ。ほいたらまあ、そのうまいこと。こぢゃんとたまげたわねえ。ホンマぜよ。」

その後アメリカへ着いて、いよいよミルクを口にしたがやと。始めはいかんかったけんど、ぴっとづつ飲めるようになってきて、しまいにはこぢゃんと好物になっちょったそうぢゃ。証拠はこれ。マサチューセッツで学校に通わせてもらいよった頃に、捕鯨に出かけちゅうホイットフィールド船長に出いた手紙ぢゃ。ひまわり太郎の脚色で土佐弁に訳いちゃおかねえ。

「昨年は50ブッシェルのりんごと115ブッシェルのじゃがいもと8~9トンの枯れ草を収穫したぞね。たいちゃなもんぢゃお。ほんで、枯れ草のうちの3~4トンは売りに出いたきねえ。牛乳はどっしこあるぞね。このおいしいミルクをおまんに飲ませとうて飲ませとうてまいまいしゆうがよ。」

どうぞね?

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