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今日のにっこりひまわり 毎日健康社員日記

街道考〔4124〕2014/07/31

街道考

2014年7月31日(木)晴れ

昨日は、久々に雨が降った気がします。夜にはあがっちょりましたが、午後の長い時間、キチンと降りました。一気に地面の温度が下がったような気がします。今朝は良いお天気。なので、今も窓の外ではワシャワシャワシャワシャワシャワシャワシャワシャ。

ここは前浜。南国市前浜。伊都多神社さんの少し西。砂丘の尾根筋を東西に走る県道を撮影してみました。前浜の砂丘の集落は、この、砂丘の尾根筋を中心に形成されちょります。この道路の海抜は12.4m。神社も、一番高い、津波の被害に遭いにくい場所に鎮座ましましちょります。

前浜村は、土佐下街道(しもかいどう)が通り抜けます。その下街道、この砂丘の道ではなく、もっと北の空港滑走路の界隈を通っちょりました。どれが下街道か説明しましょう。えーと、南国バイパスの、田村の歩道橋の信号を南へ行きます。田村城趾の城八幡を右手に見ながら空港滑走路下を通るトンネルを抜けますね。その、抜け出たところに、東西の道との交差点があります。そう。その東西の道。それが、たぶん往時の下街道。海軍が飛行場をつくるまで、その街道はそこから東へ延び、それこそ現在の物部川の河口大橋界隈にあった渡船で対岸の芳原に渡って東へとつながっちょった街道。下街道。
滑走路南の交叉点から西へ行くと、稲生を通って高知の城下へ。それが土佐下街道。ちなみに、その下街道が土佐東街道と合流するのは、古川。そして商都赤岡を抜けて安芸方面へ。

昨日、昔の街道のことを書きました。昔、松山街道は、仁淀川町大崎から久万高原町までの間、現在とは全然違うルートを通っておった、という話。現在の国道33号線は、基本的に仁淀川沿いを走ります。明治以降の道路建設は、仁淀川や吉野川といった大きな川の渓谷に沿うように行われちょります。高低差を嫌い、渓谷に無理むっちゃく道路を建設しちゅう感じ。
それ以前の街道は、渓谷に道をつくったりはしません。もっと、山中や尾根を通る道。そちらの方が安全であったでしょう。また、徒歩が基本で、高低差を気にしないのも昔の街道の特徴。高低差より直線距離や安全性の方が優先されちょります。

Googleマップで見てみますと、昨日の、国道33号線のルートと旧松山街道のルートは、距離はあまり変わらないようです。違いは、仁淀川沿いを通るかどうか。街道としては、そんな危険なルートは採用できんかったのでありましょう。もっと歩きやすい、峠越えのルートが、壬申の乱の10年も前から官道として整備されちょったと言う訳です。

それで思い出すのが阿波から土佐東街道へとやって来る道。現在は、国道55号線が室戸岬廻りでつながっちょります。しかし、嘗ては、阿波から土佐に入ると、野根から野根山を越えて北川、奈半利へと降りて来るルートが一般的でした。山越えですが、そちらの方が安全で楽ちんやったがでしょう。ここでも、高低差よりも距離、安全性が優先。

しかし。
室戸には、八十八ヶ所の札所が3つもあります。なので、お遍路さんは、野根から危険な海岸沿いの道を南下して室戸へと向かいよりました。明治時代の絵葉書を見ても、それはそれは危険な、岩場の道。そしてしばらく集落も何も無い。阿波からやって来た場合、ある番所は、お昼以降は通さんかったそうです。次の集落まで余りに危険な難所が長く続くので、遭難する危険があったきですね。

こんな話から、昔は、渓谷や海岸の岩場は、危険すぎて官道にはならなかった、ということが解るのであります。深い山の中に意外なほどの大きな集落があったりするのは、昔の官道や街道が、渓谷や海岸岩場を避け、そんな山中を経由しておったきでしょう。池川や本山は、その典型かも知れません。地域の成り立ちは、昔の交通事情を見てみると、理解できることがあります。


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