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今日のにっこりひまわり 毎日健康社員日記

柏水、希義、平田俊遠の判断〔4739〕2016/04/06

柏水、希義、平田俊遠の判断

2016年4月6日(水)晴れ!

良いお天気。今日も気温、上がりそう。もう、初夏の陽気だ。
ここは篠原。南国市篠原。田んぼが美しい、篠原の風景。写真右手の向こうに見えるのが吾岡山。正面の木は、絶滅危惧種でもある「チシャノキ」。
その「チシャノキ」、古来、柏の木とされ、この木が3代目と言います。伝説の柏の木。

以前にも書いたことありますね。ここにあった柏の木。
源平争乱の頃。
平治の乱(1159年)で源氏方が破れ、義朝が平家に屈し、13歳の頼朝が、伊豆、蛭ヶ小島へ流されたのはご承知の通り。で、その際、頼朝の同母弟にして義経の兄になる源希義くんも、土佐へと流された。そして、介良で、平家の監視の下、二十数年を過ごした、と云います。介良の冠者、希義くん。
介良で、濃密な青春時代を過ごした訳だ。

1180年の頼朝挙兵に呼応し、土佐では数少ない源氏方の夜須七郎と合流すべく、介良を出発。この写真の場所で農夫に水を所望、柏の木の下から湧き出る水を、柏の葉で掬うて飲んだそうです。そして、ここから北東へ1kmちょっとの、年越山の東で、平家方に討たれて亡くなった、とされます。
介良の、居住地からここまでが3〜4kmでしょうか。馬で移動していたとすれば、水を所望するには早すぎる気もするが。ひょっとしたら、徒歩やったのかも知れませんね。そうすると、かなり慌てた逃亡劇であった、という構図やったのかも知れない。ああ。妄想が暴走する。
でも、違うか。
年越山東側の、討ち取られた界隈には、鞍掛の岩がありますきんね。やっぱし、馬だ。

介良での濃密な青春時代、と言えば、希義くん、介良で、平家方の武将平田俊遠の妹か、弟の娘かはっきりしませんが、とにかく平家方の娘を嫁に貰い、子供を作ったと云います。おう。頼朝が平家の血筋の北条家の娘を嫁にしたのと一緒ではないか。
北条氏は、頼朝挙兵の応援をしましたが、平田氏は、希義を討ち取った側に回ったのが、歴史の面白さ。もし、平田氏が希義を守って挙兵に従うちょったら。頼朝の幕府で、平田家がかなりの重きを成したかも知れない。ああ。妄想が・・・
ちなみに、その、希義くんの子が、吾川郡に盤踞した戦国七雄の一人、吉良氏の祖である、という話が「吉良物語」にあるそうです。なるほど。

それはともかく柏水。
ここには、現在はこのように農業用水が流れております。これは、人為的に構築された水路。かつて、この界隈は、湧き水があるような場所だったのか。
そこで便利な地理院地図。最近お気に入りの地理院地図の主題図で、治水地形分類図を見てみました。なるほど。
このしゅっと北側に、物部川の旧河道がある。長岡台地は、このすぐ北側までのびてきちょりますが、その長岡台地の南裾を通り、この北側を西進する流れが、太古の昔、あったにかありません。なので、現在でも、伏流水のような流れが地下を通っているのでありましょう。それが湧き水となり、希義さんの喉を潤した。

この、なんということのない朝の風景。
なぜ、出発して間もないここで水を所望したのか。
親類となっていた平田俊遠が、希義を守らずに討ちとる側に回ったのは何故か。
ああ。朝っぱらから興味は尽きない。


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