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今日のにっこりひまわり 毎日健康社員日記

秦泉寺廃寺跡で、風景を想像する〔4792〕2016/05/29

秦泉寺廃寺跡で、風景を想像する

2016年5月29日(日)雨

よく降ります。
今朝は会社に行っちょりまして、午後から時間を作り、雨の中、ここに行っちょりました。秦泉寺廃寺跡。

ここは、中秦泉寺の交差点を少し北へ行ったところ。左手の建物が秦ふれあいセンター。向こうに秦山が見えますが、その山の向こう側の山裾に、僕の実家があります。ひまわり乳業創業の地。大正11年、そこで乳牛と山羊を飼い始めたのを始まりとする、ひまわり乳業。

それはともかく秦泉寺廃寺。
この秦泉寺という地名は、ここに、太古の昔、寺院があったことに由来するのではないか、と考えられて来ました。で、昭和50年に初めての発掘調査が行われ、道路工事や建物の工事が行われるたびに繰り返されてきた埋蔵文化財調査。で、この度、秦泉寺廃寺跡第7次発掘調査が行われ、今日、この雨の中、現地説明会が開催されたのでありました。

以前の調査で、この界隈に寺院があったことは、ほぼほぼ、間違いないと考えられて来ました。しかし、どこが寺院の本堂なのか、誰が建てたのか、といった謎は、解明されちょりません。誰が建てた、などというのは、たぶん、永遠に判明することは、ないと思う。
しかし、本堂などの配置は、いつか、わかったら嬉しいですよね。
で、今次の調査では、この場所に、まっすぐ南北方向に建てられた掘っ立て柱の建物があったことが判明。白いロープを張っちゅう場所ですな。北側の、第6次調査で発見された遺構とつながっちゅう。でですね、まっすぐ南北方向に、広い溝。東西方向にも、溝。その溝からは、7世紀の物と思われる瓦が大量に出土したのであります。しかも、蓮華文がはっきり残る軒丸瓦が出土。これで、7世紀の寺院跡であることがわかる。

そして、たくさんの土師器や須恵器が出土し、托鉢に使う鉢なども見つかったことから、どうやらお坊さんの居住空間、僧坊などがあったのではないか、という見解。

ここも、本堂では、なかった。

さて。地理院地図を見てみよう。
ここは、扇状地。金谷川、東谷川などの扇状地だ。この地点の標高は8mくらい。いくつかの山に囲まれた扇状地。あの秦山の向こう側、山裾の標高は5mくらい。で、その南側は一段下がって2m。
その、2mの部分は、かつての海。中世の頃まで、海であった。秦山の南麓が海岸線。
愛宕山は、海に突き出した半島の山。愛宕山の西側と東側の扇状地が、海岸線であり、港になっていたのか。

7世紀後半と言いますれば、大化の改新の後、壬申の乱から天武天皇の時代。その頃。
律令制度が導入され、ようやく中央集権的に国家が機能し始めた時期。そんな時期に、土佐でも、あちこちで大きな寺院が造営されちょります。これはたぶん全国的な傾向。
それまで、そんな大きな建築物は、土佐にもなかったのではないか。
中央の権力が地方に伝播し、地方豪族と中央権力がつながって、この場所に大きな寺院ができた、という想像ができる。

ここに、大きな寺院がある風景。
その向こうは、海。
秦泉寺というばあですき、渡来系の秦氏と関係のあった寺院なのか。

海上を、船を使って往来するようになり、ひょっとすると、土佐は、今考えるほど僻遠の地ではなかったのかも、知れません。

その山の向こうに、都とつながる港の風景がある。たくさんの、船。
大きな、寺院。この僧坊で暮らす、大勢の僧侶。

1400年前のこの地は、土佐でも有数の賑わいを見せた、政治経済の中心地であったのか。そんな想像をしながら、この風景を楽しむ。とても、面白い。


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