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今日のにっこりひまわり 毎日健康社員日記

弘化台の真実を探る〔4836〕2016/07/12

弘化台の真実を探る

2016年7月12日(火)薄曇り

昨日のにっこりの、話。
弘化台は弁天様で、厳島神社で、弘化厳島神社、という話。気になったので、今朝、今一度調べてみました。こういうことは、ちゃんとしちょかんと、いけませんきんね。

手元に、高知市さんが発行した「描かれた高知市」という優れものの本があります。これには、高知市の、昔の絵図から明治大正昭和期の、様々な市街図などなど、掲載されている。
で、現在の弘化台ができる前の市街図を見てみました。

写真は、昭和28年発行の「高知市街図」
これを見ると、丸山台と弘化台の間に「厳島」という島が、見える。なるほど。厳島神社は、弘化台にあったのではなく、丸山台と弘化台の間の島にあったのか。
で、東へ少し離れて、黒磯。ミロクの捕鯨砲試射台があったのは、黒磯か。今も、黒っぽい岩礁が並んでいる。しかも、黒磯は、正方形に描かれちゅうので、今も残る四角い人工島がミロクの砲台であったことが、これでよくわかる。

昭和8年の地図で、弘化台に神社があるように見えたのは間違いで、丸山台と弘化台の間の小島が、厳島神社なのか。

ところが!
今発見したのですが、昭和29年発行の「最新高知市街図」には、この写真と同じ構図の島が並び、なんと、弘化台に鳥居の形の神社マーク。なんだ?
厳島は厳島で、神社は弘化台側にあったのか?

更に調べていくと、面白い市街図を発見。
昭和10年発行の市街図だ。その地図では、丸山台と厳島の間が、橋かなにかで繋がっているんですね。その当時と言えば、まだ、稲荷新地が栄え、丸山台には料亭があって、稲荷新地と丸山台の間を。歓楽客を乗せた小舟が往来していた、そんな時代。
丸山台に来たお客さんは、橋を渡って厳島へ。厳島には神社があったのか無かったのか。なんか、楽しいぞ。

更に遡ると。
昭和4年の市街図では、橋はなく、丸山台、厳島、弘化台、と並び、昭和10年の地図での黒磯は、玄武島。四角い人工の島、玄武島。黒は玄ですきんね。

更に更に遡る。
明治11年刊行の、かの、河田小龍さんが描いた「高知市街全図」。
ん?
この地図は、ちょっと、違う。
丸山台の東に、ひょうたん型の島があり、弘化台。その島に神社があって、厳島。
黒磯のところには「玄夫島 俗に 黒磯」とある。玄夫島が正式名称で、黒磯が俗称だったのか。
それにしても、弘化台と厳島が一緒になっているのは、なぜか、小龍さんの勘違いなのか、どうなのか。それともこの当時は、厳島と弘化台は、一つの島であったのか。そうかも知れません。
弘化台と厳島は一つの島と見做され、島の東部に、厳島神社があった。で、潮が込んでくると二つの島になったのかも知れない。

では、江戸時代の絵図はどうなっちゅうのか。
はりまや橋交差点の地下道とかにもある、有名な、「自浦戸到幡多倉橋図」という絵図。描かれた正確な年号は不明で、江戸時代後期、ということになっちょります。
この絵図には、弘化台も、厳島も、丸山台すら、見えない。
「玄夫嶋 世ハ云 黒磯」と書かれた、屋形船が停泊しちゅう岩場があるので、これが後世ミロクの砲台になる場所でしょう。

その西に、貝掘りをしている人々が見える「世ハ云 川後之洲」という洲。そっから西に「白鷺洲」。その西には、東西に長い「三頭南洲」とあるが、それは現在の中の島でしょう。

と、言うことは、「世ハ云 川後之洲」が弘化台、厳島で、「白鷺洲」が丸山台なのか。丸山台は、昔、巣山とも呼ばれ、鳥の巣になっていた島と言うので、「白鷺洲」というのも、なんか、わかる。

と、なるとだ。「川後之洲」は、貝掘りを楽しむくらいの洲。そこが後世の弘化台、厳島としたら、この当時には弁天様はなかったことに、なりますな。

更に更に遡ると、文化元年(1804年)という古い時代に描かれた「鏡川絵図」というのがありました。
これを解読すると、黒磯、つまり玄夫嶋と思われる黒い岩礁がある。その西に「洲」と「芝洲」。「芝洲」は、緑色に塗られちゅうので、草が生えちゅう洲でしょう。「芝洲」の西に、土台部分が石積みで構築された「丸山」が見える。おう。丸山は、そんな時代から、石積みで固められた島だったのか。

現在の中の島は、その絵図では先っぽ界隈が「洲」で、その西は「芝洲」。

読むの、嫌になってきたでしょ?
実際の地図も表示せずに、こんなややこしい話。嫌になって当然だ。申し訳ないです、はい。

ともかくも、この時代、弁天様は存在してない、ということが言いたい訳です。

この写真の、現在の弘化台ができる以前の風景は、間違いなく、事実でしょう。
明治11年の、河田小龍さんの市街図に厳島があることから、弘化年間に弘化台に砲台が構築された頃、弁天様もできた、と妄想できます。妄想ですが。

するとだね、描かれた年代が不詳とされる、「自浦戸到幡多倉橋図」という絵図は、少なくとも、弘化年間以前に描かれたものではないか、という妄想も成り立つのでありますね。

まあ、今朝はこれっぱあにしちょきます。


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