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知っとく健康コラム

南国土佐はどんなところぜよ?(土佐弁) 2000/12/13

今回から、あしの趣味、土佐の歴史の世界へみなを案内しちゃおうかのう。「ホームページを私物化するな!」らぁゆうていうこうべった人らぁの批判はめっそ聞かんづくとに、マニアックワールドを紹介していきたいと思いゆうきによろしゅう頼むぞね。


第1回目の今回は、土佐の歴史概説と土佐人気質についてのあしの考えを述べさいてもらおうかのう。


土佐の国の古代は、都佐国と波多国に別れちょって、それぞれに国造が任命されて治められよったがよよ。ほいたところが大化の改新ゆうもんがあってから統一されて土佐国になって、比江の今の木材団地のクに国衙がおかれて、中央から任命された国司が来たがよ。

しょうまっこと高い北の山が有るきに、土佐はまっこと「遠国」ぢゃ。796年に笹越えの道ができたけんど、それまでは中村から宇和島の方を周って都の方へ登りよったがやと。笹越えができてからも「遠流の国」ゆうことで、頼朝の弟の希義ゆうもん(地元では介良の冠者ゆうて言うらしい)やらおえらい人がどっしこ流されて来たもんぢゃ。承久の折には土御門上皇、後醍醐の長男の尊良親王らぁも流されて来たと。応仁の乱の時には、一条様が中村へ入ってきたがは、よう知られちょらぁのう。

12世紀末に信州から秦能俊が入ってきた。その21代目が元親公になるがやけんど、元親公は、本山氏やら安芸氏やらを破って1585年に四国をぜんぶ攻め落といたわねぇ。まっことえらいもんぢゃ。けんど秀吉に負けて土佐一国だけの領主に認められたがよよ。息子の盛親は関が原で負けてしもうてダンツンデしもうて、しまいには滅ぼされてしもうたねぇ。かわいそうに。ほんでその後一豊公が入ってきて、大高坂の山に高知城を作って住み始めたのう。

それから267年は、山内様の天下ぢゃ。

幕末から明治にかけては半平太やら竜馬やら乾(板垣)退助やら岩崎弥太郎(三菱財閥創始者)やら偉い人がどっしこ出たことはみんなぁ知っちょらぁのう。


土佐は、北にこじゃんち急な山が有って、よそへ行くがもおおごとやった訳ぢゃけんど、南には、太平洋ゆう、おらんくの池が溜まっちょらぁ。昔から漁師もようけ居ったけんど南やら北やらこじゃんち遠いへも船で往来しよったろうのう。そんなことがあったきに太平洋から室戸を見る眼、よそから土佐とか日本の国を見る眼が養われた言われちょりま。


長宗我部も山内も元来よそから来た人らぁやけんど、あしらぁにはひとっつも違和感が無いぜよ。知事も市長もよそもんぢゃきのう。高知に人がおらんと言われたらそれまでやけんど、あしらぁめっそそんなことは気にせんがよよ。


あしらぁも酒はこじゃんち飲むし、高知のおなごはこじゃんちえらいし、酒を飲んで議論してカッカが来て台所の包丁で刺すらぁゆうてゆうこともよう聞くけんど、もっと、高知県、日本国、いやあ、世界中の人の役に立つ人が出てもらいたいもんぢゃのう。


ダキな概説を述べらいてもろうたけんど、次からはマニアックな世界に突入していくきによろしゅう頼むぜよ。

土佐弁がわかりにくかったら、標準語のこうべったがも書いちゅうきにそれも見とうせよ。ほいたら。

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