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宝永町の痕跡はどこだ〔3795〕2013/09/05

宝永町の痕跡はどこだ

2013年9月5日(木)快晴!

台風一過と申しますか、めっそ風は強うなかったので大雨一過。素晴らしいお天気になりました。こんなキレイな青空は久し振りのような気がします。暑い一日になりそうではありますが、朝の風の心地良いこと。秋晴れのさわやかさを予感させる、そんな青空。元気になるお天気です。

昨日はまた、高知県内も、あちこちでかなり降ったにかありません。時間雨量の記録を更新したところもあったようです。最近、あちこちでビッシリ時間雨量が更新されゆうので、特に目新しい感じもせんですが。気候は、確実に変わって来よりますよね、間違いなく。

昨夜、会社から走って帰りました。もう雲は少のうなりよりましたが、時折、小雨がパラついて身体に心地良かったです。気温も最高。舟入川沿いの土手を走ったがですが、途中、女子中学生くらいの3人組が走りゆうがに遭遇し、思わず見栄を張って追い抜いてビュンビュン走ったもんで、かなりフウフウぜえぜえになりました。かなりカロリー消費ができたような気がします。その後のカロリー摂取もかなりなので、意味ないですが・・

さて。走って帰る際は、普段は、車に積載しちゅう折り畳み自転車を家に降ろしちょくので、朝は自転車で出勤するようにしちょります。ところが。
昨日は、自転車を家に降ろすがを忘れちょりました。
仕方ないので空港バス。
高知空港行きの連絡バスの一番早いがは、ここ宝永町を5:58発。普段よりかなり遅うなってしまいますが、仕方ない。てな訳で、バス停でバスを待ちながら、この写真を撮影しました。

向こうが西。つまりお城下方面。
以前にも何度も書きましたので、皆さんご承知でしょうが、宝永町という町名は、ここに「宝永堤」という土手があったことに由来します。
山内氏が土佐に入国し、浦戸から大高坂山に本拠を移して、城下町建設をしました。その際、城下を、幾重かの堀や土塁で守るようにしました。敵の来襲に備える、という意味が大きかったでしょうが、土塁には、防災の意味がありました。
この宝永町の界隈にも、寛永2年(1625年)頃、北の江ノ口川と南の鏡川をつなぐように堀が掘られ、土塁が構築されたにかありません。

しかし。
宝永4年(1707年)の南海地震津波で崩壊。「潮江、下知、新町、江ノ口より一宮、布師田、大津、介良、衣笠まで一円の海になり、舟ならでは通路なし」ということになった訳です。
そこで、土佐藩としても対策を講じんといかん。で、ここの南北の堤を、頑丈なものに造り直したのであります。宝永地震後につくられたので宝永堤。

今は、その痕跡すら見当たりません。
手元の「描かれた高知市」に掲載されちゅう、明治30年発行の「土佐國高知市街圖」にありました。江ノ口川から堀川の三ツ頭まで。堀はなく、道沿いに「宝永堤」と書かれた構築物がはっきり記載されちょります。
その場所は、その地図と現在の地図を見比べますと、たぶん、その信号の辺りの南北ではないかと思われます。
歩道橋のある大きな交差点から北へ、一文橋に繋がる道路ができたがは最近。小生学生時代は、その信号から北へ行く道がメインルートで、江ノ口川に突き当たって右折、そして左折して一文橋を渡りよりました。

大正10年発行の「高知市街圖」では、「宝永堤」と書かれたものはありません。この右手の場所には学校と役場のマーク。下知尋常小学校と下知村役場ですな。
おっと、これを北へ行って、川のちょっと手前を西へ行ったところに「私立城東商業学校 江陽学舎」とあるではありませんか。そうか。
現在の高知学園の前身、城東商業は、ここにあったがですな。知りませんでした。

この「描かれた高知市」には、まだまだ興味深い地図があります。今日は時間がないので、また、改めます。ここに堤が築かれた理由が想像できる、そんな地図もありますです。


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