1本からお届けします!お電話でのご注文・お問い合わせ

フリーダイヤル:0120-77-6245

今日のにっこりひまわり 毎日健康社員日記

会津藩と三浦半島と上岡八幡宮の縁〔4759〕2016/04/26

会津藩と三浦半島と上岡八幡宮の縁

2016年4月26日(火)快晴!

良いお天気。
写真は、今朝の野市、上岡八幡宮さん参道入り口。洪積台地の段丘端。この参道脇に、狛犬や石灯籠がいくつか並びます。その一つが、この灯籠。おそらく、この八幡様にある石灯籠や狛犬などの中でも一番古いと思われる「文化九壬申歳 八月十五日」という日付が刻まれている、石灯籠。
文化9年。1812年。以前にも書きましたが、ナポレオンがロシアに侵攻するも、そのナポレオン軍をロシア軍が打ち破ったという年だ。チャイコフスキーの「序曲1812年」の話は、幾度か書きました。

で、今朝は、Googleで、「文化九年八月十五日」を検索してみました。何が出てくるだろうか。
検索結果の何番目かには、私が書いたにっこりひまわりの「文化9年に生まれた絵金」という記事が表示。それはともかく、その上に、三昧堂、腰越墓地という記事が表示されました。何だろう?

それを詳しく見てみますと。
三昧堂は「さめど」と読むそうです。神奈川県横須賀市にある地名。三昧堂に、腰越墓地という、会津藩士や藩士の家族を葬った墓地があり、その一基に「文化九壬申年八月十五日 會津臣石山久八紀知母之墓」、と刻まれ、法名が釈善念信女さんのお墓があるのでありました。
横須賀に会津藩士の墓所?

調べてみました。
会津と三浦半島は、実は、歴史的に縁があるんですな。奥州合戦に遡る話。
義経が逃げ込んだ奥州藤原氏を頼朝が攻撃し、滅ぼした合戦。文治五年(1189年)のこと。その戦に、三浦一族、三浦大輔義明の子、佐原十郎義連が出陣し、戦功を挙げる。で、佐原十郎は、頼朝により、会津4郡を与えられた、とあります。なるほど。
その後、その子孫が東北有数の大名に成長し、天正十七年(1589年)に伊達政宗に敗れるまで栄えた、という話。

そんな縁があったからかどうかは不明だが、徳川時代になり、武家社会も様々な歪を抱え始め、外国の圧力や影響も見え始めた19世紀初頭。化政文化が花開く時代の文化七年(1810年)に、幕府は、会津藩に命じて、江戸湾警備にあたらせた。
会津藩というと、幕末、松平容保の京都守護職を思い出す。松平容保が京都守護職に就任するのは、龍馬が脱藩した文久2年。京の情勢は風雲急を告げていた。そんな時期に守護職を命じられた会津藩。最初は、断っていたそうです。理由は、三浦半島など、江戸湾の警備に駆り出されていたので、藩財政が急迫していた為。
しかし、松平春嶽が、会津藩の藩祖保科正之が「会津藩たるは将軍家を守護べき存在」と言うたことを引き合いに出したので、断りきれず、受諾。

そんな訳で、会津藩の悲劇は、文化七年に始まったと言えるのかも知れない。
三浦半島は、会津藩領土となり、会津から、たくさんの藩士がやってきた。永住を覚悟していたので、家族も同伴。
で、横須賀には、会津藩士や藩士の家族の墓所がたくさんある、ということになったのでありました。

その中の一つが、上のご紹介した、「文化九壬申年八月十五日 會津臣石山久八紀知母之墓」というお墓。
この石灯籠に刻まれた年月日の縁で、横須賀と会津藩の縁を知ることができました。ちなみに、2005年4月、会津若松市と横須賀市は友好都市提携を結んだそうです。もちろん、三浦一族と会津の縁や、会津藩士と家族がたくさん移住してきて警備に当たったという縁。

今、気付いたのですが、この写真の石灯籠の右手に灯籠の台座が一つ転がっています。そこには「文久三年」と刻まれちゅう。会津藩が京都守護職をやっていた時代ではないか。
会津藩が、三浦半島の警備をやっておった時代と、京都の警備をやっていた時代。

今朝も一つ勉強になりました。


←前日の日記2016年04月の日記翌日の日記→

HOME今日のにっこりひまわり

日記検索

年月別過去ログ

年のクリックで月を表示・非表示します。月をクリックすると記事一覧を表示します。

2026年

2025年

2024年

2023年

2022年

2021年

2020年

2019年

2018年

2017年

2016年

2015年

2014年

2013年

2012年

2011年

2010年

2009年

2008年

2007年

2006年

2005年

2004年

2003年

サイトマップ

facebook  instagram  x