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今日のにっこりひまわり

刎ね橋の、今〔4783〕2016/05/20

刎ね橋の、今

2016年5月20日(金)晴れ!

刎ね橋。
このにっこりひまわりを始めて以来、何度かご紹介してきた、刎ね橋。はねばし。

にっこり初出は、2003年5月1日。まだ、にっこりひまわりを始めて半月。文章も短くて完結ですな。にっこりひまわりを何年も何年も続けることになるとか、思いもよらんかった、あの頃。もう一つ、想像できていなかったのが、その後の刎ね橋の風景。

あの頃から、新堀川を埋め立てて道路にする、という計画はありました。が、あの美しい風景が、よもや、とタカをくくっていたのも、事実。
しかし、いったん計画された公共工事というものは、簡単に止まるものではない。そりゃあ、広くて便利な道路は、あった方が良い、と思うのは普通。便利にこしたことは、ない。
しかし、本当にそうなのか、という議論が、その頃からありました。

一度消えてしまった、便利さや合理性では測れない価値は、もう、二度と取り戻すことはできない。そういった価値の重要性は、やっとのことで今、見直され始め、日本橋の上の高速道路を撤去しよう、とかの動きが起き始めている。

その後、工事は始まり、2009年4月にはこんなになり2011年2月には、こんなになってしまいました。
あの刎ね橋は撤去されて、なくなってしまいました。

刎ね橋という橋の名前は、藩政期、その橋が両岸から大木を刎ね出して架橋する、という特殊な構造の橋であったことに由来するのはご承知の通り。その特殊工法が採用された理由は、底井流にあります。
藩政期初期に、浦戸湾からお城下に向けて、堀川が整備されました。堀詰まで掘られた用水路は、物資の運搬などに利用されました。その堀川と江ノ口川を南北に結ぶ横堀が掘られたのが、貞享四年(1687年)。

「高知平野の地形と沖積層」という、お気に入りの論文を見てみると、現在の沖積層の下にある洪積層、つまり、何万年か前に堆積して形成された固い地盤の地形が、現在の地形にもかなり影響しちゅうことがわかります。
はい。歴史かと思いよったら、地学です。

高知城の山から南東へ、潮江に向けて舌状に張り出す尾根。その北側も南側も、深い谷。その谷の方向に沿うように、堀川が掘られているのは、そこに水路がもともとあったからなのではないか。
そして、その尾根の北側の谷の谷奥部分に南北に掘られたのが横堀。今の新堀川だ。

ここで歴史に戻ろう。
その横堀を掘った際、江ノ口川との分岐の部分に橋を架ける必要があった。しかし、横堀の西側から東側へ、生活用水を流すための用水路が、横堀の底に通されていた。それが底井流。
その為、柱を立てる訳にはまいらん。
橋脚が立てれんが、堀川の幅は結構広い。そこで、両岸から大木を刎ね出し、つなぐという特殊工法が採用される、ということになった訳だ。

特殊工法ですが、事故があったとは、聞きません。
今朝の新聞に、新名神の工事で、また橋のパーツが落下した、みたいな記事が載っちょりました。こないだ、大事故があったばかりやのに。橋の工事は難しい。新しい技術革新が進むも、うまくいかないことも、多い。
それで思い出すのが鏡川の天神橋だ。
20年に一度、架け替え工事が行われていた天神橋。工事は入札形式。で、文政五年(1822年)の架け替え工事入札の際に、画期的工法を編み出した、ということで通常よりも3割〜4割安い価格で落札したのが、大工の亀右衛門。
しかし。落成式典を待つ間に、そのできたばかりの天神橋は崩落。使われることはなかった。使い始めてから落ちんで、良かった良かった。

と、まあ、橋の工事は難しい。

それはともかく、13年前に撮影した、当時の刎ね橋(昭和10年架橋)の親柱。今は、このように、新堀川を塞いだ新しい道路脇に、このようにモニュメントとなって、静かにたたずむ親柱。


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