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今日のにっこりひまわり 毎日健康社員日記

石積みに見える歴史、稲荷新地〔6446〕2020/12/08

石積みに見える歴史、稲荷新地

2020年12月8日(火)晴れ

写真は、今朝、4時半過ぎの二葉町。二葉町は、常盤町の東で若松町の西。昭和49年にできた町名、二葉町。たぶん、立派な松並木由来の常盤町と、新地に植えられた若い松の間の町ということで、そんな町名になったんだと思われます。

この通りに、以前にもご紹介した、石灰石の石積みがあります。亀甲積みの、石灰岩。

高知は石灰石がたくさん採れる土地柄で、その為に、全国的には割合に珍しい石灰岩の石積みを見ることができる話も、以前にも書いたっすね。で、盛んに石灰岩で亀甲積みが行われたのは、たぶん明治期。それも、割合に早い時期だと思ってます。

そんな訳で、この左手の石積みは、明治期にここに新地が築かれて、城下最大の繁華街になった当時の面影を伝えるものなのではないか、と、密かに思いながらニヤニヤしている僕なのでした。

 

そもそも慶応2年。つまり1866年で、大政奉還の前年、長岡郡池村の土居慶蔵という人物が、藩に、この場所での宅地造成を建議したのが始まり。藩はその建議を受けて翌年、つまり慶応3年に造成を開始し、翌明治慶応4年、つまり明治元年に東西440間余りの住宅地造成が完了して「稲荷新地」と称されるようになったと、角川の「高知県地名大辞典」に書いちゃあります。

住宅地造成、とあるけども、浦戸湾沿いの便利極まりない土地なので、単に「宅地」とは考えてなかったでしょうね、絶対に。

 

こっからは、郷土史家武市佐市郎さんが大正期に書かれた文章を参考に、書きますね。

明治元年、筒井某と言う人物が、「丸カ楼(まるかろう)」という料理屋を開業し、それが歓楽街稲荷新地の始まりとされてます。まだ、造成中やがな。造成の目的が知れるというものだ。そして続いてできたのが「丸多」「高知屋」「百萬石」「金波楼」。土佐藩の家老だった深尾丹波さんが「丹波楼」を始めて賑わった、という、当時はなかなか信じられないような話もあったようでございます。

その後「此君亭」ができ、「松鶴楼」が建ち、「菊水楼」「梅花楼」ができて、そして、随分遅れて「得月楼」ができたという訳です。

下の新地、稲荷新地に対応するように、上の新地、玉水新地ができたのも明治初年で、「陽暉楼」はその地に明治3年にできてます。明治11年、陽暉楼を訪れた谷干城によって「得月楼」と命名された話はあまりにも有名やけど、その後得月楼は、下の新地に本店を移して「南海第一楼」として有名を轟かせるようになるのでした。

 

ちなみに玉水新地、つまり「上の新地」は、軍人さんのお客が多かったみたいです。なるほど、という感じ。

 

この白い石灰岩の石積みは、この東側の海岸沿いが「下の新地」として賑わった時代の痕跡なのかも知れない、と思って見てみると、また、違う風景に見えてきたりしませんか?しませんよね。僕には、この左側に木造の料理屋さんや遊郭が見えるけど。


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