官道と城山とネットワーク社会〔8064〕2025/05/14

2025年5月14日(水)晴れ!
良いお天気。ここは南国市小籠。士島田遺跡、祈年遺跡がある場所。この眼前の田んぼを、幅6mはある直線の官道が走っていたのは、律令制度が構築されていた時期のこと。今から1300年前のこと。その官道はいつ頃まであったんでしょうね。
中国の制度に倣って直線の官道をつくった時代は、確かにありました。しかしその後、日本では直線道の文明は廃れていった訳で、国土とか風土とかにはそぐわなかったんでありましょう。ただ、そんな時代から、中央の制度は国土の隅々まで行き渡っていた訳で、当時から、今考えるよりもずっと、人やモノや情報の拡散力がありました。
今考えるよりもずっと、人やモノや情報の拡散力があったのは、律令制度による中央集権国家成立よりも前から、卑弥呼の時代から、弥生時代から、縄文時代から、旧石器寺時代の昔からだと思う。でなければ、同じ言語を広い範囲で喋ったりすることにはならんし、同じような生活様式になったりせんしね。
ネット社会になって、情報が瞬時に行き渡るようになったと言います。が、ネット社会以前にも社会人として過ごした僕らにとって、今の社会と当時とで情報の広がり方が劇的に違うかというと、そうでもない感覚。同じように、戦前の方々にとって、僕らが若かった時代の情報拡散力が革命的だったかというと、たぶんそうでもない。人間は、何としてでも情報を共有する社会的生物だから。旧石器時代から、同じような石器を各地で使い、サヌカイトや黒曜石が広がったのは、そんな時代から人類がネットワーク社会を生きていたからだと思うのでした。
向こうに見えるのは岡豊山。言わずと知れた、長宗我部氏が本拠とした山。昨日も書いたけど、松田先生によれば、四の段のところに、信長の影響下による石積みの原型のようなものがあるのではないか、という説もあるんだそう。もしそうだとすれば、土佐の長宗我部政権は、やはり中央の信長政権の強い影響下にあり、一昨日も書いたように浦戸城に移ってからは、秀吉の強い影響下にあって、そういったネットワーク社会の中で頑張っていた、ということになります。
そう。石器時代の昔から、広汎なネットワーク社会の中で生きてきたのが、ヒトという生き物なんだ。だから使い慣れているはずのネットワーク社会な訳やけど、最近はちょいと振り回されている感、ありますよね。ここはひとつ、太古の昔からネットワーク社会を築き上げてきたプロとして、うまく対処していって欲しい。嘘や誹謗中傷が広がらない、仕組みとか。ここはAIの出番かも知れんね。などと面倒臭いこと書いてしまった。
いやいや、こんなこと書くつもりではなかったのに。古代の官道と長宗我部の城山を眺めながら書き始めたら、こんな文章になってしまった。
いやいや、そんなことより仕事仕事!