赤松貞明と西日本軽飛行機協会と本田宗一郎〔8126〕2025/07/15

2025年7月15日(火)晴れ!
今朝は晴れて、心地よい風が吹いてます。涼しいねー。昨日はよく降ったけど。
昨晩、「高知航空史記念館準備会」を個人で設立し、頑張っておられる福井さんという方と飲んでました。この準備会の別名は「赤松貞明記念館準備会」。
赤松貞明さんは、現高知市前里出身で、海南学校卒業後、海軍佐世保海兵団に入団し、パイロットとして成長しました。そして太平洋戦争で活躍して「撃墜王」と呼ばれた人物。かの、「源田サーカス」と言われた源田実と対等にアクロバット飛行をやっていたという技量は、海軍航空隊でも有名だったそう。
興味深い話はたくさんあるけど、その中の話のひとつに、戦後の活躍があります。太平洋戦争が終わり、日章の海軍高知航空隊も解散。そして昭和27年、米軍に接収されていた日章飛行場が返還され、航空事業への日本の参入が解禁されます。使うことのなくなった飛行場をどうするか、という話になり、元々優良農地だったこともあって、農地に戻そう、という動きが出てきました。海軍に強制接収されていた農民たちにとっては当然の動きやね。
しかしその際、赤松たち有志が、高知の将来に鑑みて飛行場は絶対必要だ、と航空会社を創業することになったのでした。その会社は「西日本軽飛行機協会」。地元財界からも資金を調達するけども、なかなか大変。
アメリカから「パイパー・ペイサーPA-20-135型」という軽飛行機を購入するけども資金が足りない。メーカーには2機発注したけど、1機分の代金にも資金が足りなかったので、なんと、本田宗一郎さんに話を持ちかけ、1機を購入してもらい、その利鞘を残り1機の購入代金に充てた、とのこと。
その、本田宗一郎氏が購入したという軽飛行機は、なんと、本田技研が初めて所有した社用機だった、とされてます。そう。現在はホンダジェットをつくっている世界のホンダが初めて購入した飛行機は、高知の、民間有志が設立した小さな航空会社からだった、という話。
ホンダにも詳細な資料が残っておらず、福井さんが調べまくった結果、ホンダのOB・OG組織であるホンダ倶楽部の会報誌「絆」に、その当時の状況を証言する文章を発見。時系列などから、上記の経緯は間違いないだろう、ということになったのでした。
西日本軽飛行機協会は、飛行機からのビラまきや海難救助などの事業を行うも、昭和35年に解散。
しかし、現在の高知空港につながる飛行場の存続に対する功績は大きいものがあると思われます。
昨夜、福井さんを紹介してくれたのは、これまた軍事史オタクのKさん。知らなかった話、知らなかった人物のことなどたくさん聞けて、とても楽しゅうございました。世の中知らないことだらけ。
ここは高知空港の南。右端に見える碑は、「鎮魂 高知海軍航空隊之碑」と刻まれた、この飛行場から練習機「白菊」で特攻していった若いパイロットたちの鎮魂碑。
向こうに、出発を待つ飛行機。この飛行場にも、いろんな歴史、先人の思いが眠っているのでした。