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今日のにっこりひまわり 毎日健康社員日記

赤穂浪士の討ち入りと両国橋の賑わい〔3164〕2011/12/14

赤穂浪士の討ち入りと両国橋の賑わい

2011年12月14日(水)両国は曇り

今朝は東京、両国。朝の飛行機でやって来ました。業界の寄り合いです。で、偶然ですが、今日は12月14日。新暦ですきに、ちょっと違うがですが、旧暦の12月14日は赤穂浪士の討ち入りの日。
「ときに元禄15年12月14日、江戸の夜風を震わせて・・」で始まる、三波春夫先生の傑作歌謡浪曲「元禄名槍譜 俵星玄蕃」で、この日付は脳裏に刻み付けられちょります。討ち入りが行われた吉良の邸は、この両国橋の向こう、回向院のもうちょっと向こうの松坂町。で、俵星玄蕃では、玄蕃は、この両国橋のたもとで仁王立ちになり、赤穂浪士の討ち入りに邪魔が入らんようにガードした、ということになっちょります。
さてこの両国橋、明暦の大火(1657年)の際に、多くの江戸の市民が隅田川で逃げ場を失うたことから、対岸への逃げ道を確保するために架けられた橋。その頃は、江戸の中心部からちょっと離れた静かな場所やったにかありません。
赤穂浪士の討ち入りの頃はどうやったがでしょう。少し賑やかになりつつも、たぶん、まだまだ静かな地域やったと思われます。そうじゃないと、あんな討ち入りの大騒動が、完遂できたとは思えません。討ち入りの翌年の元禄16年(1703年)、元禄の大火が発生、この両国橋の東側、つまり武蔵国側に、日除け地として広場がつくられ、両国広小路と呼ばれました。ここは交通の結節点という地の利もあり、その広小路には、どんどんと人が集まり始め、ものすごい繁華街となっていったのでありました。茶店、見世物、浄瑠璃、芝居、講釈などがぎっしりと並んで迷路空間。江戸の街、いや、日本の都市では、水辺、橋のたもとの広場といった空間に、そういった遊興の場が迷路のように発展していった歴史があるようです。やっぱし「水辺」の「ゴチャゴチャ」した「猥雑」な空間に、ヒトは集まるがでしょう。
隅田川や、このしゅっと横に流れ込む神田川には屋形船、屋根船、猪牙舟などがひしめいて、それはそれはすごかったようです。
ただ、隅田川のこちら側は、将軍のお膝元ということで色々と規制もあったようです。川の向こう、下総国は規制も緩かったようで、明暦大火の犠牲者を弔うためにできた回向院の門前を中心に、もうちょっとくだけた、好色物、因果物、イカサマ物、いかがわしい私娼宿などがヒシメき、繁栄を極めたということ。
現在はビルなどが立ち並び、スッキリしてしまいました。柳橋界隈の路地裏に、少しだけ往時をしのばせてくれるような雰囲気がありますが、キレイな区画整理で、繁華街ではなくなっていく典型例を見ることもできます。
そう言えば、こないだ、神戸大学の文化人類学の先生と呑みよったときに、興味深い話を聞きました。
阪神大震災の後、行政の言うことを聞いて復興の区画整理をキレイにした長田地区からは、往時の賑わいはなりを潜め、行政に抵抗してゴチャゴチャした雰囲気を残した復興をおこなった灘界隈は、賑わいを見せるようになってきた、とのこと。大災害の復興の難しさ。今こそ、関東大震災や空襲後の都市復興、そして阪神大震災後と都市復興を検証し、これからに活かしていかんといかんがかも知れません。


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