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中世土佐の中心で、都市計画について考える〔3471〕2012/10/16

中世土佐の中心で、都市計画について考える

2012年10月16日(火)晴れ!

ここは田村。南国市田村。南国バイパスの、歩道橋のある交差点を南へ行ったところ。空港の滑走路の下をくぐるトンネルの手前。道沿い右手に、少し盛り上がった小山があり、その上に祠。城八幡。ここに、室町時代、土佐国の守護であった細川氏の館があったことを今に伝える城八幡。メッソ知られちゃあしませんが、中世、ここは土佐の中心でした。
城八幡の祠にカメラを置き、撮影したのがこの写真。向こうに空港が見えよります。

室町当時の、この居館を中心とした集落は、空港滑走路拡張工事の際の発掘調査が行われ、高知県立歴史民族博物館にジオラマになって展示されちょります。いわゆる環濠集落。
当時、その集落の南は湿地帯ではなかったでしょうか。入り江が、海岸の砂丘の北側に入り込み、近畿からやって来た船は、その港へ入って来よったがかも知れません。そして、その入り江周辺には、商工業を中心にした「都市」があったがかも知れません。いや、これは小生の単なる妄想。

室町時代と言えば、日本という国で、商工業が発展した時代。各地に「都市」なるものが形成されていったのはご承知の通り。何度かご紹介した、福山の草戸千軒なども、そのひとつ。網野義彦先生の説ではないですが、中世の日本の都市は、海運の便の良いところに発達したケースが多いようです。
ここに守護代屋敷が築かれ、集落が形成されたのは、この南に港があり、都市があったきぢゃあなかろうかと勝手に妄想しゆう訳です。

新聞に、高知城の東の財務局跡地発掘調査で、あの界隈に街が形成されたのは室町時代であったことが判ってきた、という記事が載っちょりました。それは、小生、予想しちょりました。そうでしょうそうでしょう。高知城の山、大高坂山を本拠とした豪族、大高坂氏は、南北朝の頃、全盛を迎えました。
かつて浦戸湾の底であり、ラグーンであり、湿地帯であった場所を、灌漑し、干拓して街を形成していったのは、大高坂氏の勢力やったかも知れません。
そしてこっからは妄想ですが、室町の頃、街割りができていったということは、既に、そこに商工業の都市が形成されよったのではないか。海運の便は抜群ですき。

ちなみに1340年の南北朝の合戦で破れた大高坂氏ですが、一族は界隈に勢力を持ち続けたようです。天正15年(1587年)の地検帳に「大高坂殿」という記載があり、一族が、所領をどっしこ持っちょったことがわかっちょります。
つまり。
室町時代、後の城下町の基になる街割りをつくりあげていったのは、大高坂氏の勢力であったと考えることに、無理はない訳です。

街をつくる、というのは、大変なこと。自然発生的に生まれてきた街と、都市計画に基づいてつくられた街とは違いますが。そして、元々あった街を再開発する、というのは、これまた大変。
街には「機能」だけではなく「文化」「文明」、そして「歴史」「思い」があります。そのすべてを考え、デリケートな部分を考慮しながら行う必要があります。「文化」がさほどない地区、「文化」の「歴史」が浅い地区なら、割合簡単。そこが、戦争で焼けず、昔ながらの「文化」や「歴史」を内包しちゅう地域である場合、「機能」だけでものごとを進めると、なかなかしんどいことになる訳です。

この田村の場合、ラグーン沿岸の田んぼに集落を形成した訳で、そんなに複雑ではなかったでしょう。大高坂氏の場合、自分達で灌漑し、開拓していった新しい場所に都市を形成した訳で、そんなに複雑ではなかったでしょう。
そこにやって来た山内氏は、元々の街割りの上に、新しい街をつくりあげていったので、ちょっと複雑。

旭地区は、ほとんど戦争で焼けてしもうた高知市街地の中、珍しく、戦前の空気、匂いが濃く残された土地。機能だけで考える訳にはいかない、複雑な複雑な深い事情がこんがらがっちょります。解きほぐすことはできるのか。
都市計画について、深く考えさせられる事件です。


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