城下町、郭中と下町境界の痕跡考〔3583〕2013/02/05
2013年2月5日(火)晴れ!
痕跡の旅。まだまだ続きます。
ここも、以前ご紹介したことがありますし、高知の城下町痕跡ではかなり有名なスポットですき、ご存知の方も多いでしょう。大丸本館の北、四国銀行中央支店から、西へ斜めに入っていく道。写真は、その途中から西向いて撮影したもの。突き当たりに居酒屋DON。この右手がABCビルですね。
この道路の盛り上がり、これが、まぎれもない城下町痕跡なのでありました。
山内一豊が土佐に入国し、浦戸から大高坂山に本拠のお城を遷して、城下町建設を始めた17世紀始め。城下町の中心部、お城の周囲に、武士が居住するエリア、郭中をつくり、その外を、商人や農民、職人、一般人が住むエリアにしたがはご承知の通り。その際、郭中が一番重要な地域とされた訳で、その外と、明確に別けました。
北は江ノ口川で、南は鏡川ですき、問題なし。
西は、升形で、南北に土塁と堀がつくられました。途中に、後に金子橋と呼ばれた橋が架かります。以前にもご紹介した正保絵図には、土塁の高さは1間3尺となっちょります。2m72cm。こじゃんと高い。この正保絵図は、幕府提出用の計画図といった意味合いもあるので、この高さが実際かどうかはちくとわからん。
さて、東。東は、堀詰を中心に、南北に堀と土塁。土塁は、堀に架かる橋から南が1間3尺で、北は5尺。つまり1m51cm。
さて。
この盛り上がり。これは、その、郭中の東端、下町との境界に構築された土塁の痕跡なのであります。正保絵図では、この土塁の高さはどうなっちゅうのか。ここで、注目するのが、堀に架かった小さな橋。
皆さん、大丸の北、帯屋町のアーケードに、つちばしさんというおそば屋さんがあるがをご存知ですよね。この写真の場所は、丁度その裏。北側。つちばし、という名称は、その堀に架かっちょった橋の名前からきちょります。つまり、そのおそば屋さんの所に土橋が架かっちょったとすれば、ここはその北。ですきに、正保絵図の土塁の高さでは1m51cmということになります。なるほど。
検証が済んだところで、この写真。
もう、郭中と下町を区別する痕跡は、ほとんど残っちゃあしません。大丸の西、新京橋のアーケードから、大丸に沿うて、つちばしさんへ向かう小さな小路がありますが、あれが、南北に掘られた堀のルート。あそこに堀と土塁がありました。
宝永南海地震は、宝永4年、1707年。津波が城下を襲いました。が、高く築かれた土塁が、郭中の被害をかなり軽減したがやないろうかと思われます。今は、そんな土塁のない、高知市中心部。
今年3月に廃校になり、新堀小学校と統合される追手前小学校。その校区と、新堀小学校の校区の境目、実に不思議でした。何やら、町の途中で、突然校区が変わっちゅうので、どうやって校区割りをしたがか、謎でした。
そう。この、追手前小学校の東の校区境は、郭中と下町の境やった訳です。納得いきましたでしょうか?
4月から追手前小学校と新堀小学校が統合され、その校区の境目も必要なくなります。
が、この痕跡は、藩政期、城下町の痕跡として、いつまでも残してもらいたいと、痕跡研究家の小生は、強く願うのでありました。