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東九反田公園、流れ行く歴史〔3926〕2014/01/14

東九反田公園、流れ行く歴史

2014年1月14日(火)晴れ!

丁度良いくらいの、心地よい冷え込みの朝。ここは夜明け前、4時頃の東九反田公園。
各所にある、こういった公園の敷地は、何の跡地であるのかは、それぞれの成り立ちによって全然違いますね。
例えば昨日の若松町児童遊園。たぶんあそこは、池。浦戸湾とは土手で仕切られてはいても、湾の水が入り込んでくる池であったと思われます。
与力町旧本社北側の松渕川公園の場所は、藩政期はもちろん武家屋敷ですが、明治になって「高知座」という有名な芝居小屋ができて、人気を博した場所。その跡地が公園になりました。
そしてここ、東九反田公園は、市内の公園でも有数の、歴史にあふれた場所にあります。

九反田は、元々湿地帯で、田畑が九反くらいしかなかったことから九反田と呼ばれたのはご承知の通り。建物は、今の大鋸屋橋の界隈に少しあったくらいやそうです。
今、枡形にある称名寺さんは、今の前は筆山北西麓にあり、その前は九反田にありました。今の九反田公園かトップワン四国の界隈でしょうか。万治三年(1660年)に火事で焼けた後、藩の復興都市計画によってでしょうか、お寺は筆山麓へ遷座、その跡地に、藩米などを貯蔵する御米蔵ができました。

そして界隈には、藩の様々な役所も置かれました。いわゆる新都心ですな。藩作事方のひとつ、大鋸屋方役所ができたので、ネキの橋が大鋸屋橋と呼ばれたりした訳です。
気になるがは刑場。そう。刑場もありました。跡地は馬場になったとされますが、さて、それはどの辺りなのか。知らん方が良いかも知れませんな。
この東九反田公園のある界隈は「作事方役所」と思われます。

そんな場所やったので、藩政期末期になって、開成館がつくられることになった訳です。とにかく、土佐藩が財政的に力をつけんと話にならん、という合理的かつ先進的な考えの元、後藤象二郎くんが中心になって、土佐の殖産興業センターとして、この場所に開成館がつくられたのが幕末も幕末、慶応二年(1866年)。吉田東洋さんが暗殺されちょらんかったら、もっと早うにこういった施設ができちょったと思われます。そうなっちょったら、歴史は、また変わっちょったでしょうな。

その開成館には様々な部門がありましたが、国産品の藩外移出、貿易を担当する貨殖局で活躍したがが岩崎弥太郎。それを礎に、彼は三菱帝国を築いていったのでありました。そのルーツはここ。
維新で、せっかくできたばかりの開成館も必要なくなりました。が、後世に与えた影響はなかなか大きい。
維新後、明治三年には迎賓館としての「寅賓館(いんひんかん)」となって、西郷、大久保、木戸と板垣、福岡らの会談が行われたりした場所。

そして、その後板垣らによって立志社が最初につくられたのも、ここ。
そんな訳で、正面、お月様の右下のトップワン四国の手前に「憲政之祖国」という立派な碑が建つことになったがは、説明するまでもありません。

九反田にあった藩の各種役所は明治になって廃止。その後にできた施設のひとつが魚市場でした。いくつかに分かれてできた魚市場の一つが、その後、中央卸売り市場となり、それが弘化台に移った跡地が高知市文化施設かるぽーと。右手に聳えるは、ホテル日航高知旭ロイヤルさん。ホテルになる前は、ニチレイさんの倉庫でした。右端のマンションは、まだ、できて10年にもなりません。できる前は、今は弘化台に本社がある大東冷蔵さんでした。

流れ行く歴史の中で、風景はどんどんと変わってゆきます。


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