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今日のにっこりひまわり 毎日健康社員日記

今川焼きの謎〔3962〕2014/02/19

今川焼きの謎

2014年2月19日(水)薄曇り

冷やいですね。気温があがらず、北風が冷やい冷やい。
そんな中、幡多へ行きよります。宿毛で、酪農組合の総会。お昼からで、もちろん宴会もあります。今日も、お昼からお酒が飲めるのでありました。

ここは途中の窪川。ゆういんぐ四万十さんで休憩中。高速道路の開通に伴い、高速出口の西側に移転してきました。見よりましたら、「今川焼き(つぶあん)」というのを売りよったので、ついうっかり買うて食べてしまいました。ついうっかり。
今川焼き。これは色んな名前で呼ばれますよね。高知では、今川焼きと呼ぶことはメッソないと思います。だいたい大判焼きと呼びよった記憶があります。太鼓まんとも。同じ高知市内の狭いエリアでも様々な呼び名。不思議な食べ物です。
追手前小学校のすぐ近くにあった、同級生の家も、それを焼いて売るお店でした。ここでは、確か、回転まんと呼びよったと思います。回転まんの「甘天狗」というお店。ああ懐かしい。

今川焼きをウィキペディアで見てみると、「今川焼き(いまがわやき)は、小麦粉を主体とした生地に餡を入れて金属製焼き型で焼成した和菓子である。その形状からの由来や販売店名を使用するなど、地域や店舗毎に多数の別称が存在する。」となっちょりますね。

大判焼きとか太鼓まんとかは、その形状からつけられた名称であることは想像できますな。回転まんは、ひっくり返しながら焼くやり方からきちゅうがやと思われます。それでは今川焼きは。

その名称からして、戦国大名の今川氏と関係ありそうな気がしちょりましたけんど、全然関係ないことが判りました。安倍川餅が、東海道の安倍川沿いの名物として有名になったがと同じように、今川氏が勢力を持っちょった今川という町が東海道にあって、そこの名物が今川焼きになった、という訳ではありませんでした。まったく。
今川が地名である、という考え方は正解、同じくウィキペディアには、「江戸時代中期の安永年間、江戸市内にかつて存在した竜閑川に当地の名主今川善右衛門が架橋した今川橋近隣の神田側に実在した神田西今川町や神田東今川町の店が、これらの焼き菓子を発売して高い評判を呼び、後に[今川焼き]が一般名詞化して広がったとされている。」と書かれちょりました。なるほど。

ところで今川氏。駿河の国を支配した戦国の大大名、今川義元が一番有名。桶狭間で信長に討たれたので有名な、こじゃんと強大な大名、今川氏は、最近読んだ本によりますれば吉良氏の分家として生まれた家系やそうです。
吉良氏は、足利将軍家と非常に近い一族で、将軍家である足利宗家からの後継ぎが絶えた場合、吉良家から将軍を出すことに決められちょったという程の名門。その吉良家の分家が今川家で、そのまた家来が松平家。つまり徳川家ということになる訳だ。

で、その徳川家が家康によって政権を握って幕府を開いた後、元々の主筋である今川家の本家筋となる吉良氏を、「高家」筆頭として朝廷と幕府の間をつなぐ重臣として扱うようになった、という、まあ、ややこしい話。ついてきよりますか?

そして吉良氏は、忠臣蔵の大事件によって当主を失い、なんと、徳川家によって取り潰された、という悲劇。

最近買うて読みゆう手元の本によると、吉良氏は、徳川家にとって、江戸開府までは地元三河の矢作川の水利権を握る目の上の瘤やったそうです。そして江戸時代になっても、朝廷との間をつなぐ目の上の瘤。で、殿中で起きた大刃傷事件を徳川家が利用して、忠臣蔵の事件を誘発黙認し、目の上の瘤の吉良家を取り潰したのが忠臣蔵の真実、という興味深い新説を述べております。おもしろい。

今川焼きから、話が逸れてしまいました。
ゆういんぐ四万十の「今川焼き(つぶあん)」、おいしゅうございました。


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