掛川町、堺町、京町、国沢、城畑、静かな風景〔4161〕2014/09/06
2014年9月6日(土)晴れちょります
昨夜はまた、降りましたね〜。しかし今朝。起きてみますと星空。雲が晴れ、夏の空が見えゆうではありませんか。雨上がりで湿度は高く、靄が立ちこめる夜明け前の風景。しかし今日から明日の日曜にかけては、またまたお天気崩れる予報になっちょります。ふう。
今日は初めての風景。潮江橋南詰から少し西に行った、土手の上のマンションの外階段を上ってみました。7階と8階の間の踊り場のことろから北向いて撮影したのがこの写真。
掛川町、要法寺町、八百屋町、堺町。
今はこの一帯、全体を堺町と呼びますよね。ちくと猥雑な歓楽街。かつて、この眼下、真下には高南劇場というストリップ劇場があったことは、皆さんにもご記憶、あると思います。そして石鹸の国。かつてはトルコ風呂と呼ばれておった施設は、この眼下に立ち並びます。
掛川町。
藩政期初期、山内一豊さんが、前任地であった遠州掛川から、様々な職人を連れて来て住まわせたことに始まる町、掛川町。
大工、鍛冶、研師、鉄砲師、金具師、鞘師などなど。なるほど。何故、彼らを遥々遠州から連れてきたのかが、わかるような気がしますな。山内軍団の装備に関わる職人達なので、軍団装備を維持、改善していく必要性に迫られ、連れてきたがやと思われます。南海の野蛮にして未開の地、土佐に、近代的装備を製作する技術があるとは思えんかったでしょうきんね。
長宗我部軍団は、こじゃんと強かったですが、織田、豊臣軍団の近代的に統一された軍装にはほど遠いイデタチやったにかありません。一領具足の民は、家に伝わる古い古い様式の軍装に身を固め、統一間の無いボロボロの外観の軍団を構成しちょりました。
瀬戸内側の、近代的軍団の影響を受けた軍勢は、この、夜盗集団のような、しかし滅法強い土佐の軍団に恐れおののいたのでありました。が、最終的には、兵農分離が進み、整えられ、訓練した豊臣軍団の大軍には勝てなかった長宗我部軍団。
この眼下に移住してきた職人たちは、土佐の地に、新しい技術をもたらしたでしょうか。軍事的価値の高かった人々が住む町は、種々の特権を与えられちょったと思われます。
掛川町は職人の町でした。今は、「その道」の職人さんが頑張る街に変貌しちょります。
掛川町の向こうが要法寺町と堺町。泉州堺の呉服商が往来して商いしたので堺町。この町も、高知の城下での呉服商いはここだけ、という特権を与えられちょった町。
この界隈。中世はどんな風景であったのか。古代、浦戸湾の底であった、高知の城下。中世の頃から灌漑、干拓が進み、大高坂山の東に、徐々に乾いた陸地が広がったようです。この眼下には、潮江川が運んで来る土砂が堆積して高砂のような小山ができちょりました。そこを拠点にして、土佐戦国七雄に次ぐ勢力「四大封」の一つに成長したのが国沢氏。戦国期、活躍しました。
居城の北側にあった野原。そこは「城畑(じょうはた)」と呼ばれておったので、国沢氏の畑があったがかも知れません。山内一豊さん入国後、京都の呉服商が移住してきて街をつくり、京町と呼ばれるようになった、という話は以前にも書きました。向こうに見える西鉄インの向こう側。
今はビルが立ち並んで、なかなか想像するのも難しいかも知れませんが、妄想力を働かせてみましょう。眼下。小高い丘の上に砦。その向こうに畑。その向こうの広大な湿地帯。そこに見えるのは、湿地に浮かぶ比島。遠く、田辺島も見えたでしょうか。水鳥が群れ飛ぶだけの、静かな水辺の風景が見えてくる気がします。しませんか?