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自然地形と都市計画、掛川組の優遇〔4556〕2015/10/06

自然地形と都市計画、掛川組の優遇

2015年10月6日(火)晴れ

良いお天気。かなり寒う感じる朝になりました。放射冷却というやつでしょうね。秋。

昨日、南与力町の、乾家の与力と住人の変遷について書きました。ここは、昨日の場所から少し東。堀詰交差点を真南にやってきた所。北の、堀詰向いて撮影しました。今朝5時前の写真。
この南北の道には、以前にも書きましたが、明治39年から昭和2年まで、土電の電車が走りよりました。潮江橋北詰から西へなだらかに下り、右折して、ここへ。

手元に、大正10年頃の市街図があります。
電車の軌道は、上に書いたように走り、堀詰へとつながる。その頃、堀川は、堀詰から南へと延び、その向こうで右折して西へ延びて、八軒町の逆U字型の池の痕跡につながっちょりますね。その向こうから西につながる流れが、いわゆる「松渕川」。今も「松渕川公園」という公園の名称に名前が残る、どぶのような水路。

その松渕川と呼ばれる水路、調べてみますれば、藩政期初期から存在しちょります。いつもご紹介する寛文九年(1669年)の郭中図にも、キチンと描かれちょりますきんね。
藩政期初めは、堀詰から南に延びる水路は鏡川の土手までありました。その途中から西へ分岐しちゅうまっすぐな水路が松渕川。松渕川は、中島町の町名の由来にもなる、逆U字型の池につながります。

さて。逆U字型の水路に囲まれた部分が、中島町。そして八軒町。

ここで、昨日の最後にちょっと書いた議題に突入しましょう。
その、中島町の逆U字型水路の痕跡は、以前にもご紹介した、NTT南局南東の広い道路に残りますが、その逆U字は、鏡川の蛇行の痕跡と言われております。藩政期以前、鏡川は、この部分で北に蛇行しておったと。
では、どう流れておったのか。

昨日、この写真の東側に、戦国期に鏡川の流れによってつくられた高砂があり、そこに国沢城がつくられちょった、という話を書きました。で、藩政期になり、その城跡に桂昌寺さんが建立された、と。少し小高くなったエリア。
戦国期には、まだまだ湿地帯のようであった城下町東部。鏡川の流れは、中島町の辺りで北に蛇行し、現在の堺町に土砂を堆積させながら南へ曲がって、現在の流路に流れておったのか。
そして。国沢城の北側にも小さな流れが残っていたのかも知れない。高砂の北側に。

山内氏が城下町を建設するに際し、この自然地形に目を付けた。で、鏡川本流の流路をまっすぐに付け替え、蛇行部分を水路に。そして、支流のように流れていた国沢城の北側の小川を利用、区画整理して、松渕川と堀川を建設していった。そんなストーリーが見えてくるではありませんか。いや、小生の妄想であるのは言うまでもないが。

現在の地理院地図で見ると、国沢城があった界隈も、与力町やはりまや町も、概ね海抜2m程度。平坦。
国沢城があった盛り上がり部分は、切り崩され、城下町東部湿地帯の埋め立てに使われたのかも知れない。

戦国期から藩政期の都市計画というのは、実に巧く自然地形を利用しちゅうケースが多いことに鑑みれば、この妄想も、当たらずと雖も遠からず、と思えてくるではありませんか。

この東。川に囲まれながらも、元々お城があったしっかりした土地に、要法寺と桂昌寺を置く。その界隈には、一豊が掛川から連れてきた鉄砲鍛冶や鞘師、研師などの職人を住まわせる。で、その東側の砂州は埋め立てて地盤を整え、土佐の国内各所から移住させてきた職人などを住まわせる。そうしてできた町が、朝倉町、弘岡町、浦戸町など。

寛文九年郭中図では、桂昌寺南側に、国友さんとか川瀬さんとか西村さんの家が描かれちょります。郭中図に書かれちゅうのは上級武士の名前だけかと思うたら、この国友さんは鉄砲師で、川瀬さんは研師、西村さんは鞘師。職人さん。
掛川から連れてきた職人さんは、土佐の各所から連れてこられた人々よりは格が上で、優遇されちょった訳だ。地形や成り立ちを想像しておりますと、そんなことが判ってきます。


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