野中兼山以前を想像〔7066〕2022/08/20
2022年8月20日(土)晴れ
角川書店1986年発行の「高知県地名大辞典」で、野市、上岡の項目を見ると。
そう。上岡八幡宮さんが鎮座まします上岡山の東側に広がる集落は、上岡。江戸時代は香美郡上岡村。で、「高知県地名大辞典」にはこんなことが書かれてます。
「江戸初期の藩執政野中兼山は新田開発のための用水路建設や治水事業に着手したが、その1つとして当村西方での新物部川開削工事がある。これは古流の最低位部をまっすぐ南下させるため、上岡山西麓を掘り割る工事であった。この工事の完成により、上岡山の東を迂回して南西流し、吉原村・久枝村に灌水していた旧上岡川はその機能を終了した。」
ここが、その「上岡山西麓」。この十字の場所から南向いて撮影しました。左側に上岡山。チャートの巨岩があるけど、野中兼山が「掘り割」った場所なんだろうね。で、物部の本流がまっすぐ南流するようになった、と。つまり、現在物部川の本流の中の本流であるこの流れは、野中兼山以前にはなかった、ということ。
では、その工事以前の風景を想像してみよう。その為に便利なのは、地形分類図。でも、なかなか難しいねー。読み解くのは、難解。
「上岡山の東を迂回」していたという上岡川やけど、地形分類図では、上岡山の東側は更新世段丘だ。たぶん、旧国道の物部川橋の近くから段丘を開削するように流れ込み、上岡山の東を南流していたのが、上岡川。
古物部川は、上岡川との分岐から南西へと流れ、弊社の南、この十字の辺りで、北からの大きな流れに合流し、蛇行しながら現在の後川、そして太平洋へと流れ込んでいたと想像できます。
扇状地に、網目状に流れていた物部川。その流れを直線上にまとめ上げたのが、野中兼山だったのでした。そうすることで、本流の流れをスムーズにして水害から扇状地を守る。灌漑は、新たに構築した堰から水を引いて、広大な農地を開拓する。
農地開発と治水を同時に行う壮大な土木工事やった訳ですな。すごい。土木工作機械もない時代、人間の手作業で行われた壮大な土木工事。その痕跡が、この切り立ったチャートなのかも知れないと想像すると、感慨深いねー。灌漑だけに。