メーデーと鬼頭良之助〔7686〕2024/05/01

2024年5月1日(水)雨
今日も、雨。雨の中、5月が始まりました。新緑の季節。雨に打たれて草が生えるの速い速い。そんな5月1日。メーデー。
5月1日がメーデーで、メーデーとは何なのか、どんな歴史があるのか、みたいなこと、今の若い労働組合員とかあんまし知らんでしょうねー。
よく言われるように、メーデーの起源はヨーロッパの5月祭。春の訪れを祝うお祭り。労働者も使用者も、みんなで祝うお祭りであったことから、いつしか労働者の日として定着してきたのが、メーデー。日本でも1905年頃からメーデーの取り組みが始まったとウィキに書いてるけど、正式に「メーデー」として大会が開催されたのが1920年。今から100年ちょっと前。東京、上野公園でのこと。
で、その6年後に高知でも始まったとされてるけど、高知で本格的なメーデーとなったのは1929年(昭和4年)だそう。
前年末、土佐電鉄の争議に組合側が勝利し、その勢いで盛大に開催されたという高知のメーデー。1936年(昭和11年)に禁止されるまで続き、戦後、1946年には早速復活、高知駅前の会場に参加した群衆は、なんと1万3000人。すごいね。
上に土佐電鉄争議、と書きました。土佐電鉄の労働争議の場面は、かの名作映画「鬼龍院花子の生涯」にも出てきますねー。「鬼政」とこ鬼龍院政五郎が、使用者側の依頼で争議を取りやめに赴くも、そこでの「田辺」という青年の有りようを意気に感じて労働者側についてしまう、という重要な場面。あったねー。
その鬼龍院政五郎のモデルとなったのが、土佐の侠客鬼頭良之助さん。
明治6年生まれの鬼頭さん、少年時代に大阪へ出奔して、大阪の親分小林佐兵衛の子分となり、頭角を現す。で、大正4年に帰高し、九反田で海産物商を開き、魚市場の用心棒などとして勢力を広げて土佐の大親分となったのでした。
「侠客」として、庶民が苦しむのを見ておられず、上に書いた土佐で最初の本格的メーデーに協力したりしたのは、「鬼龍院花子の生涯」に描かれている通り。
このにっこりでも幾度も取り上げてきたように、高知には、鬼頭良之介さんのたくさんの痕跡が残っています。ここも、そのひとつ。稲荷新地、土佐稲荷神社の玉垣。この向こうが新地で、陽暉楼もありました。鬼頭良之助さん活躍の、中心地だ。
その思想、行動の原点は、恐らくは大阪の小林佐兵衛さん。なかなかの人物なので、今度、ゆっくり取り上げたいね。
1976年高知新聞社発行「高知県百科事典」で、「労働運動」の項目を見てみました。上に書いた最初のメーデー、戦後初のメーデーなどの記事があり、戦後の労働運動の歴史が書かれています。その最後に書かれている文章が、これ。
「スタグフレーション下の本県労働運動は1975年現在、深刻な雇用問題に直面している。」
この、半世紀前の「雇用問題」の中心は失業問題だった。
この時には、半世紀後の「雇用問題」、つまり人手不足問題は、想像もできなかったでしょうね。
だから、今から半世紀後がどんな世の中になっているのかは、想像もできないのでした。