高知大空襲と残ったビルと絵画教室〔8102〕2025/06/21

2025年6月21日(土)薄曇り
昨日の「あんぱん」では、昭和20年7月4日の「高知大空襲」が描かれていました。高知市民にとって忘れてはならない7月4日。高知の市街地は、「あんぱん」でも表現されていたように、一面の焼け野が原となってしまいました。
そんな高知大空襲の痕跡は、このにっこりでも幾度か紹介してきました。升形の織田歯科医院とか、桟橋通りの高知商業学校の塀とか。あの、商業学校の塀は、今は取り壊されてしまったでしょうか。
そして、現在、高知市の中心部で、あの大空襲を生き残った唯一の建物と言われているのが、以前にも紹介したこのマッチ箱のようなビル。
路地を入った奥にあるこのビル、南側には、以前、「高知小劇」という独立系ピンク映画館がありました。高知市にもたくさんあった映画館の最後の生き残りのひとつやったけど、今から12年前に閉館となった「高知小劇」。その「小劇」があったので、大空襲を生き延びてきた古めいた建物も目立たずにそのまんま残っていました。が、「小劇」がなくなって駐車場となり、南の道路から見えるようになってしまったので、こんな感じの可愛い塗装が施されたのでした。
現在の外観は可愛いマッチ箱のようなビルやけど、実は、戦争の傷跡を残す貴重な貴重なビルであることは、あまり知られていません。
周囲の建物が全部焼け落ちてしまったのに、残ることができた理由は、空襲に備えて、窓に鉄板が貼られていたから、とも言います。すごいね。
以前にも書いたけど、戦後のこのビルには子供対象の絵画教室があって、僕の5歳上の姉が通っていたそうです。姉が幼稚園児の頃なので、昭和30年代前半のこと。絵画教室の先生は、秦泉寺先生ご夫妻。ご夫婦ともに絵の先生だったそう。小さな子供がたくさん習いにきていたと言います。戦争の焼け跡が復興していく中で、そういった文化的な教育も再開した、そんな時期。
戦後、高知で絵に携わっていた秦泉寺先生ご夫妻は、ひょっとしたら、戦後間も無くの高知新聞でイラストを描いたしりていた柳瀬嵩さんと、交流があったでしょうか。よく見ると、なかなか洒落たつくりになっているこのビルを、柳瀬夫妻は訪ねたこと、あるのでしょうか。昭和20年7月4日を生き延びた、このマッチ箱のようなビルには、戦後、絵画教室がありました。