痕跡研究家〔3380〕2012/07/17
2012年7月17日(火)晴れ!
昨夜のうちにまた雨が降り、そして今朝は晴れ。湿度が高い夜で、寝苦しかった方も多いんではないでしょうか。まだ濡れた街にガイな直射日光。湯気が立ちよります。
ここは今日、早朝の堺町。潮江橋北詰から、鏡川沿いよりひとつ北の道路を西進、西向いて撮影しました。地面近くにカメラを置いての撮影ですき、雨に濡れた地面が光りよります。この右手は堺町の泡の国街。ひまわり太郎が学生の頃までは、高南劇場というストリップもありました。
昔の町名で言いますと掛川町。今は全体的に堺町と呼んだりしますが、電車通りの南が堺町、その南が要法寺町、その南が掛川町というのがホント。
掛川町は、山内一豊さんが土佐に入国してきた際、前任地の遠州掛川からいろんな職人さんを呼んで来て住まわせた、古い町。
大工頭、鍛冶頭、研師、鍔師、鞘師、鉄砲鍛冶、金具師などなど。高知の城下の工業技術センター兼工業団地といった趣き。その道のプロフェッショナルが住んだ訳です。今も、「その道」のプロフェッショナルが働く町、掛川町。
さてさて、この写真をよくご覧下さい。この道路、向こうに行くに従うて、ちょっとづつ下っていっちゅががわかりますでしょうか。ゆるやかな下り坂。突き当たりの明るいところが、堀詰から南へ下ったところ。
土佐電鉄の開業は明治37年。で、明治39年には、梅ノ辻と堀詰の間が開業。当時、梅ノ辻から北上、できたばっかしの潮江橋を渡ると、しゅっと左折、このスロープを下ってあの突き当たりで右折、堀詰へと出よりました。昭和3年まで。それまでは、はりまや橋は電車の交差点ぢゃあなかった訳です。
ひまわり太郎の考えるところ、このスロープは、その電車の路線があった痕跡。通常、こんななだらかなスロープの道路はありません。橋以外の場所で。潮江橋北詰は鏡川堤防上で、結構高い海抜。そっから、高知の街方面に下っていく道。
ここを電車が走りよったからこそ、ここにこんななだらかなスロープができたと、小生、信じちゅうのであります。
先週末、NHK松山放送局制作の番組で、「近ぶら」というがをやりよりました。タレントの友近が、松山の街をあるきながら昔の痕跡を楽しんだりするバラエティ。あの、ブラタモリの松山版ですな。素晴らしい。自分達の住む街の歴史を知り、体感するのは素敵なこと。ブラタモリが人気なのはよくわかります。ひまわり太郎のど真ん中ストライク。
高知の痕跡研究家としましては、ぜひぜひ、その高知判をつくってもらいたい。小生、誰も気付いてないこのような痕跡とか、マニアな情報を提供できます。マニア過ぎるという話もあります。