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今でこそ不自然に見える市町村境〔3579〕2013/02/01

今でこそ不自然に見える市町村境

2013年2月1日(金)曇っちょります

暖かい朝。曇っちょりますき。
しかしはや2月ですか。梅も咲き始めた2月。どんどんと季節は進んでいくがに唖然とさせられる今日この頃。
ここは、今朝の香南市。と、南国市の境目。右手の向こうに飛行機が並んじゅうがでわかります通り、ここは高知空港の脇。このフェンスの中が誘導路、滑走路。そして、このフェンスに掲げられた板に、吉川村、南国市と書かれちょります。

旧香美郡吉川村は、現在の香南市。ですき、ここは、香南市と南国市の境目ということになります。以前にもご紹介したことがありますが、旧吉川村は、ここ、物部川西岸に飛び地があるがです。河口のトリム公園から、滑走路南東端にかけて。なぜか旧吉川村で、現香南市。

理由は想像できます。物部川の流路は、かつて、今のように固定しちょりませんでした。前にも書いたように、弥生時代、古代は、国道55号線で言うと田村の歩道橋のもうちょっと東が本流やったにかありません。中世、土佐の守護、細川氏の守護代屋敷も、その物部川本流の西側に位置しちょったと。
Googleマップで見たらわかるように、物部川は、この界隈の平野を、網の目のように流れ、潤し、太平洋へ流れよりました。

ですき、その流れは定まらず、ひまわり乳業がある物部川西岸も、かつては東岸やった時代があり、野市、上岡八幡宮さんの氏子になっちゅうがはビッシリ書いてきました。

この写真の場所も、物部川が流れよった時期があり、その東と西で村が分かれちょったことは想像できます。

ところで、市町村の境目で、アレ?と思うような場所がありますよね。例えば繁藤。土讃線の、繁藤駅の界隈は、旧土佐山田町、現香美市。我々の感覚からすると、根曳峠を越えたら大豊町でしょう。ところが香美市。いつ、繁藤が土佐山田町になったか見てみると、昭和31年。それまで大豊村であった樫ノ谷、上穴内、繁藤、北滝本と、角茂谷の一部が土佐山田町に編入、となっちょります。ほら見てみい、と思うて更に調べると、大豊村ができたがはその前年で、昔は、甫喜山郷に属しちょりました。

甫喜山郷には、山の下の平山とかも含まれ、長岡郡。大豊町と同じ長岡郡。平山とかは、町政施行の際にあっさりと土佐山田町になった訳ですが、繁藤界隈は、大豊の各村と道路でつながり、行き来が簡単であったということで大豊村になったがでしょう。しかし。
元々のつながりで言えば、甫喜山郷の村々と縁が深く、そしてもうひとつ、ひまわり太郎が想像する大きな理由があって、繁藤は土佐山田町になったと思われます。いや、勝手に思いよります。

その、勝手に想像しゆう理由は甫喜ヶ峰疎水。明治33年に貫通した甫喜ヶ峰疎水のことは、以前、書きました。その疎水は、吉野川水系の穴内川の水を、甫喜ヶ峰の横腹にトンネルをぶち抜いて平山に落とし、山田の街や農地を潤そうというもの。古く、野中兼山さんが発想したものの断念、結局、明治33年に貫通した甫喜ヶ峰疎水。

その疎水の水源は、繁藤。

水利権とか、水の管理とか、用水の保守とか、水についてはとにかく難しい。水路を誰がつくって、誰が管理の費用を負担し、誰が使うのか。
で、こないだ、赤野川のところでもちょっと書きましたが、その用水が市町村を跨いじょったりすると、かなりややこしいことになる訳です。早明浦ダムの香川用水のイメージでしょうか。

そんなこんなで、甫喜ヶ峰疎水の受益者である土佐山田町が、その水源から管理することで、責任や負担が一元化し、都合が良い、てな事情もあったのではないかと妄想する訳です。
元々、昭和30年に大豊村ができた際、繁藤を大豊に入れたところに無理があったということかも知れません。

ところで話題は変わりますけんど、繁藤。
明治以前は、繁藤は、四手藤(しでとう)。四手任とか肆手任とかも書いたそうですけんど、しでとう。それが、明治になって、繁藤になったがやそうです。知らんかったです。日々之勉強。


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