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南国市田村の夜明け〔3816〕2013/09/26

南国市田村の夜明け

2013年9月16日(木)晴れ!

良いお天気ですが、風がエラい。台風の影響でしょうかね。昨夜も走って帰ったので、今朝も自転車出勤でございましたが、強烈な向かい風。自転車にとって何がキツいかと申しますれば、上り坂と向かい風。上り坂は当たり前ですけんど、向かい風も、かなりの負荷になります。小生の愛車、コンマイ折り畳み号をエッチラオッチラ踏みながら、どうぞりこうぞり会社にやって来ました。強風で髪の毛ボサボサ。

ここは南国市田村。昨日撮影した場所よりも、ちょっとだけ西。現在、高知東部自動車道がどんどんと作られゆう現場。アッと言う間に風景がどんどんと変わっていきます。
右端に、高知空港。この、撮影したポイントの少し西を、昔、物部川本流が流れよったがやないろうかと思います。その古物部川の右岸を中心に、自然堤防の上に形成されたがが田村の弥生集落。南四国最大級、といった言われ方をしますけんど、出土した竪穴式住居跡の数などは、全国クラス。皆さんが考えちゅうよりも、ずっと大きい巨大な集落が広がっちょったがかも知れません。

この田村に荘園が成立した記録は、これまた古い。
天長3年(826年)、空海の弟子の僧真体さんが、亡き妹の77日の忌に際して、田村庄と久満庄(高知市の久万ですな)を寄進しちゅう記録があるそうです。鎌倉時代になって皇室領の荘園になっちょりますので、どっかのタイミングで、転化しちゅうがでしょう。

鎌倉時代は三池入道道覚に譲られた記録があって、どうやら三池氏の所領になった田村。三池炭坑の三池の地頭職となった三池氏。その後摂津氏に移り、紆余曲折があって、南北朝戦乱の後、いよいよ細川氏がやって来るのでありました。
1379年に管領を辞して讃岐へ帰った細川頼之が、一族の細川頼益を守護代として土佐に送り込み、田村に守護代屋敷を構えて土佐を支配するようになった、という話は以前も書きましたよね。

こないだ、中世の日本における都市の形成、といったことを書きました。いわゆる網野義彦史観に基づいて。「都市」は、農業に基本を置かず、交易や商業を基本とし、無縁、楽、公界といった場が形成された場所である、という史観。それは、全国の、海に近いところに形成され、日本の庶民の暮らしに絶大な影響を与えた、というもの。
で、そんな都市が形成された場所は、河川が海に流れ出る界隈に自然にできた安全な港、ラグーン沿いであったケースが多いという話。

こないだ、何故、国府界隈ではなく、ここ田村を守護代細川氏が拠点としたのか、ということについて妄想しました。ここは、当時の物部川の河口部。前浜砂丘北側には海が入り込み、ラグーンが形成されちょったにかありません。そう。上の条件に当てはまる。
歴史民俗資料館には、中世の、田村の環濠集落ジオラマが展示されちゃありますが、あれだけではなく、居館を中心として、小さな都市が形成されちょってもおかしゅうありません。事実、長宗我部地検帳には「市場」「市場ノ前」というホノギ名が見られ、細川氏の城館に接して市町が形成されちょったがは間違いないようです。
歴史民族資料館のジオラマは、大きな農村風景。しかし、実際は、ひょっとしたらラグーン沿いに小さな都市が形成され、国外との交易が盛んに行われて、道々の輩、芸能の民も、たくさん訪れた賑やかな街やったがも知れん、という妄想。

それはともかく。
左端に見える森は、田村の豪族、入交氏が勧請してきた若一王子宮さん。真南には、かつてラグーンであったかも知れない平野が広がりますが、そこに東部自動車道の大きな土盛りができました。
見晴らしが悪くなりましたが、巨大南海地震の津波が襲うて来たら、その土盛りが、堤防代わりになってくれるがかも知れません。


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