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今日のにっこりひまわり 毎日健康社員日記

長岡京とながおか温泉〔6532〕2021/03/04

長岡京とながおか温泉

2021年3月4日(木)晴れ

「鳴くよ鶯平安京」で覚えた方が多いと思うけど、僕らは「鶯鳴くよ平安京」で覚えました。小林塾で。まあ、どうでもいいですが。とにかく794年、桓武天皇によって都は平安京、現在の京都に遷されたのは、みんな知ってます。

それは奈良の平城京から。ではなくて、平安京の南西、大山崎の北の長岡京からの遷都。奈良の平城京から、784年、長岡京へと遷都が行われておりました。これも桓武天皇ね。桓武天皇は、それまでの天武天皇系ではなくて天智天皇系。政権基盤が弱い。そこで、渡来系である母の出身基盤である長岡村周辺を新都に選んだ、というのも長岡村を選んだ理由のひとつとされてます。

今、高知新聞で「遺跡からの警告(疫病編)」てのを連載してて、なかなか興味深い記事なので、朝っぱらからついつい読み込んでしまいますねー。

 

「なんと美しい平城京」なので、平城京に遷都されたのは710年。太古の昔から栄えた奈良盆地なので、そこに都が置かれたのは当然でした。でも、長い年月の中、色々と問題も噴出。特に、人口の増加に伴う衛生状態の悪化、疫病蔓延や、物資輸送の問題が表面化しておりました。それでも都を遷すってーのはなかなか大変なことで、当然大反対運動が巻き起こる。そこで、桓武天皇は、平城京の副都であった難波宮を遷すのだ、といって工事を始め、みんながそう思ってる間に完成させて一気に遷都を行った、と、この記事に書いてます。フェイントやね。

新しく選ばれたのが長岡だった理由のひとつには、いくつもの河川の合流地点が近くにあって、とにかく水運、物流が便利だったから、というのがあります。これが一番大きかったかも知れません。しかしそれが仇となる。大水害が発生しました。そこに疫病が加わる。そして、桓武天皇側近の藤原種継暗殺事件が発生して早良親王がおそらく冤罪によって淡路へ流され、その道中で死去。そして早良親王の祟りとされる災害や事件、疫病流行が頻発し、しっちゃかめっちゃかでいたたたたまれなくなって、平安遷都を実施した、というのが、まあ、定説。たぶん、そんなこと。

 

あと、この記事には、長岡京についてこう書かれてます。「造営工事は難航を極めた。長岡村は丘陵地帯で谷が入り組み、京内を旧小畑川が縦断。大規模な造成工事を進めたが、相次ぐ洪水と疫病に悩まされた。」

そう。平城京も平安京も、平べったい盆地やったけど、長岡京は丘陵地帯だったのだ。

地理院地図の、色別表構図で見てみよう。この十字の場所辺りが、都の中心である大内裏の南門。台地の先っぽみたいな感じ。そこで土地条件図で見ると、こうだ。そう。更新世段丘の先っぽに大内裏。そして段丘がウネウネと連なる地形は、律令時代からの碁盤の目のような都の立地としては、異色かも知れない。戦国期とかになると、段丘の先っぽに居城を構えて支配する、というのは一般的になるけど、それはずっと後の話。

 

そして、長岡京。長岡村。そう。この村名は、この地形に由来することは明らかですね。長々と伸びた段丘。長い丘。長岡。ながおか温泉があり、土佐長岡駅がある南国市の長岡も、更新世段丘の長い岡

 

そう。幻の都、長岡京の「長岡」は、ながおか温泉の「長岡」と同じ成り立ちだったのでした。どうでもいいですか?


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