希義公の土と石〔8355〕2026/03/01
2026年3月1日(日)晴れ!
はや3月。春爛漫。
昨日、僕の蛇紋岩愛を書いたばかりなのに、今朝の高知新聞に田中石灰工業さんの蛇紋岩の記事がドカンと掲載されてました。この話はゆっくり書きたいですね。
で、今朝は介良の冠者、気良の冠者、土佐の冠者、源希義さんの話。と、申しますのも、昨日、Jr.2号が鎌倉行ってて希義公ゆかりの説明版の写真を送ってくれたから。その写真は、この説明版のものでした。場所は源頼朝公の墓所。
そう。頼朝公の墓所横に「希義公の土と石」という説明版が掲げられているのでした。
ご承知の通り、希義公は頼朝公の同母弟。平治の乱で父義朝が敗れた際、頼朝(13歳)は伊豆へ、10歳違いの同母弟希義(3歳)は土佐へ流されたました。
頼朝が挙兵した1182年、満30歳になってた希義くんも呼応して土佐で挙兵。土佐の平家方と合流しようとする最中、年越山の麓で無念の討死となりました。
この説明版は、平治の乱で生き別れになった後、一度も再会することがなかった兄弟の、その互いの墓所の土と石を交換して「再開」させた、というもの。それは、1994年9月25日、源頼朝公報恩会と源希義公顕彰会が合同で実施した事業。9月25日は、希義公が討たれた命日。
今朝、4年ぶりに行ってみました。希義公の墓所と伝わる、明治維新まで西養寺といお寺さんがあった場所。実際どうなのかはわからんけど、この介良の山中に、静かにたたずむ伝源希義公墓所。
迂闊でした。Jr.2号からの写真を見て、こんなのあったんだ、と初めて知った僕。こんな説明版、見たことないし、と。迂闊でした。
今朝行ってみたら、キチンと立っているではないか、説明版が。かなり痛みが激しくて全部の文字は読めんけど、介良の説明版が建てられたのは1995年9月25日。鎌倉、頼朝公墓所で説明版が建てられた翌年だ。書かれている文章はまったく同じ。鎌倉のものには介良の地図と連絡先が書かれていました。
で、以前のにっこりを検証してみました。一番最近、2022年に訪れた際にも、もちろん説明版は立ってます。一番古い2003年12月の写真にも、確かに写っておるではないか。しかも、当時は文字もハッキリと残っている模様。
つまり、僕は幾度もここを訪れながら、頼朝公、希義公の墓所で土と石が交換されてたことに気付かなかった訳だ。本当に申し訳ございません。贖罪の意味を込めて、今日、改めてご紹介させて頂きます。
鎌倉の説明版は、どうやら2012年頃に一度立て替えられているようです。頼朝公墓所を訪れる方は多いでしょうきんね。方や、この、鬱蒼とした山中にある伝希義公墓所を訪れる方は年間何人いらっしゃるでしょうか。でも、せっかくなので、この文字が再び読めるようになったらいいね。
いや、世の中知らないことだらけ。まあ、今回のは「知っちょけよ」という話ですが・・・
