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地学と歴史〔4436〕2015/06/08

地学と歴史

2015年6月8日(月)曇り

まだ、降りよりません。が、今日はこれから雨になっていく予報。梅雨ですきんね。

写真は、今朝4時頃の鏡川北岸。向こうに見える灯りが潮江橋。夜明け前、静かな静かな鏡川。
鏡川、地図で見るとよくわかるのですが、あの潮江橋の辺りで、少し南に折れ曲がっちょります。東に流れておったのが、若干南に流れを変える。そして、更に南へ曲がりながら浦戸湾へと流れ込んでいく。

高知の城下の平野を、「高知平野の地層と沖積層」というネットでも見れる論文から検証してみましょう。
それによりますれば、朝倉の米田辺りを扇頂部とした扇状地が、能茶山の辺りまで。そこから東は、この潮江橋界隈まで、自然堤防。その東が沖積層。つまり、大雑把に見て、能茶山を起点に南北に引いた線より西は、まあまあ地盤が固い、ということになるのでしょうか。

それはともかく。
そういった自然堤防や沖積層が形成される以前の状況を見てみますと。
高知城のある大高坂山から南東へ、舌状に尾根が伸びております。洪積層。その尾根の背は、追手筋を東へ行った後、ひょっとこ寿司の界隈で東南東に折れ、はりまや橋界隈を通って雑喉場橋北詰、そして東洋電化さんの北側へと伸びていっちょります。その尾根の南西側と北東側には、谷。
南西側の谷の谷底は、山内神社の北側を谷頭にして少し東北東に下り、大橋通、堀詰界隈から南東に向きを変えて、潮江をまっすぐ横切って下っていきます。そして南高校の辺りが、谷底。これが洪積世に形成された地形。
ついてきてますか?もうちょっとの辛抱です。結論は、結構面白いと思いますので、頑張ってくださいね〜。

現在の地形は、もちろん、この古い古い地形に影響を受けたもの。洪積世が終わり、今の高知市街地が海に沈んだ時代に、四国山地から幾多の河川によって運ばれてきた土砂が堆積していく。
古鏡川は、上に書いた谷に沿って流れておったと思われます。
今の本流より南の河ノ瀬界隈を通って東北東に流れ、山内神社の北側から大橋通りで右に蛇行して、まっすぐ潮江を横切って南高校の方向へ流れておった、鏡川。

その後、更に堆積が進み、現在の地形に近づいてきた、高知平野。
山内一豊が土佐に入国して城下町を建設した際、当然、自然地形を利用した都市計画を考えた訳だ。
お城を築く山から東へ舌状に延びる洲。その洲の尾根、つまり一番高い部分を、城下町のメインストリートとしたのでありましょう。それが追手筋。
その尾根の一番高い部分は、ひょっとこ寿司の辺りで少し南に振れて東南東へと向きを変えるので、追手筋も、そこで少し曲がったと考えるのが自然でしょう。

藩政期の城下町の区割りを基本にして現在の高知市ができちょります。城下町建設の際に利用した自然地形は、太古の昔の洪積世地形に影響を受けて形成されたもの。現在のひょっとこカーブは、洪積世の尾根と谷が南東に走っておった、そん痕跡とも言えるかも知れません。

中島町。
以前にも書きましたが、藩政期、三翠園の西側から中島町、そして天神橋北詰にかけて、逆U字形に池がありました。その池に囲まれたので中島町。その逆U字形は、城下町建設以前、鏡川が、そこで今より北に蛇行しちょった痕跡と言います。
そう。上の、洪積世の谷の形状を見ると、鏡川がそう流れちょった理由はよくわかります。北東に一旦流れて、右にカーブして南東へ。その蛇行が、藩政期になって逆U字の池に。
そのカーブの右上部分、つまり今の堺町界隈には、土砂が堆積しやすくなり、小高い高砂のような丘ができたでしょうか。
堺町辺りにあった、鏡川の土砂によって形成された小高い丘を本拠に、戦国期活躍したのが、国沢氏。つながってきますな〜。

太古の地形から中世、近代の地形、都市計画が見えてくる。ああ。地学と歴史。


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