前略 ごめん下さい〔5717〕2018/12/10
2018年12月10日(月)晴れ
もう、3年8ヶ月前になるけど、「前略 ごめん下さい」で始まる達筆のお葉書を頂戴したことがあります。それは、あの頃僕が盛んにFacebookで活動していた「高知痕跡学会」についてのお葉書。で、学会で紹介される痕跡が、ご自分で体験されたり見たりしたことのある風景のものである、ということで、昔の記憶とともに、思い出を綴られておりました。
その中に。
「現在の二葉町から対岸の中の島まで渡し船があり、中の島には造船所がありましたので、工員が仕事に行っていましたし、私たち近くの子どもは夏になるとそれで中の島へ行き、鏡川で泳いだものです。」と、ありました。
そして、その渡し船の場所を書いてくださってますが、それが、まさにこの場所。この目の前だと思われます。
写真は、今朝4時半。鏡川大橋北詰、堀川の上から東の方向を撮影したもの。正面に明けの明星、金星だ。
ここに橋が架かったのは昭和56年3月のこと。それまで、堀川で一番下流に架かる橋は大鋸屋橋でした。菜園場の南から九反田へ渡る橋。
だから、二葉町、若松町界隈から中の島へ行くには、陸路は遠すぎた。目と鼻の先にあるけど、陸路ではかなり遠回りになる。なので、渡し船が運行していた訳だ。
僕が今立っているのがここで、昭和40年頃の航空写真が、これ。
その、防潮ゲートの手前のところに船着場のようなものが見えるので、そこが渡し船の発着所だったんだと思われます。距離にすると数十メートル。短い短い渡し船だけども、中の島で働く人々とか、遊びに行く子どもにとっては大切な「足」であった渡し船。
丁度、松山の三津の渡しみたいな感じでしょうか。三津の渡しは、今も、現役で頑張ってます。無料で。ここにあった渡し船は有料だったんだろうか。
そのお葉書を下さった女性は、その当時、83歳とのことでした。83歳で、美しくて小さな文字をギッシリと葉書にしたためておられ、すごい、と思います。今もお元気でしょうか。
夜明け前のこの風景を見ながら、その葉書のことを思い出し、引っ張り出してきました。
そのお葉書には、水上飛行場跡地近くの養老院(当時の呼び方ですがーという注意書きがあります)へ泊まり込み実習に行った昭和29年頃には、まだ建物が残っていた話や、学校の帰りに沈下橋の下を歩いて渡ったご記憶など、貴重な往時の風景が描かれています。
変わりゆく風景。でも、その風景は、必ず過去からの文脈の上に、ある。本当に嬉しいお葉書でした。