平家の落人、倶利伽羅峠、源氏の落人〔8083〕2025/06/02

2025年6月2日(月)晴れ!
会社の裏手、物部川の土手上から物部川上流方面を見ると、乳房のような形状をした山が見えます。幾度かご紹介してきた御在所山。平家の落人伝説に彩られた山。壇ノ浦の戦いからこっそりと脱出した平教盛が、安徳天皇を奉じて隠れ住んだと言われる山。だから御在所山で、その麓は在所村で、やなせたかし先生の生まれた村。
越知の横倉山をはじめとして、高知には、平家の落人伝説が残る場所、たくさんあります。椿山とかね。実際、安徳天皇かどうかは別にしても、たくさんの平家関連の人々が四国山中にやってきた、というのは史実でしょう。
で、平家の落人伝説は、概ね安徳天皇がらみのものが多いけど、異色なものに今井兼光伝説があります。鏡川を遡った「針原」という集落に残る「兼光地蔵」さんにまつわる伝説。こちらは「源氏の落人」やけど。
幾度かこのにっこりでも書いてきたように、針原にやって来たのは、木曽義仲四天王のひとり、樋口兼光である、ということになっています。樋口兼光は、同じく義仲四天王で有名な今井兼平の実の兄。土佐へは「今井兼光」としてやってきたようです。伝説やけど。
その樋口兼光が活躍した戦いのひとつに、倶利伽羅峠の戦いがあります。1183年6月2日、つまり842年前の今日、越中・加賀国境の峠で繰り広げられた戦い。源氏方の源義仲(木曽義仲)が平家方の平維盛を破った戦いで、この戦勝の勢いで義仲は入京、平家方は西国へ西国へと撤退していくことになる、エポックメイキングな戦いね。
樋口兼光は、倶利伽羅峠で敵の背後に回り込んで布陣。倶利伽羅峠で休んでいた平維盛軍に義仲軍本隊が夜襲をかけると、浮き足だった平家軍が後退しようとする。しかしそこには樋口兼光の舞台がいて挟み撃ちの包囲殲滅戦となったのでした。
逃げ道を失った平家軍が、倶利伽羅峠の断崖から谷へ転落し、そこは死屍累々の地獄となった、という話。その谷は、地獄谷と呼ばれるようになりました。
この地形。断層やね、これは。この断層が平維盛軍を悲劇に導いた、という訳だ。
あの御在所山に隠れ住んだ平教盛は、清盛屋敷の門の脇に居を構えていたので「門脇殿」と呼ばれました。高知の「門脇」姓の由来は、教盛と言われています。
そして、倶利伽羅峠の戦いからなんとか逃げ延びた平維盛は、結局、落人となって土佐国安芸にやってきたという伝説があります。京では、小松谷に住んでたので通称「小松殿」。高知の「小松」姓のルーツは、ここになると言われてます。
そして。幾度かお邪魔した針原は「今井」さんだらけ。樋口兼光、つまり今井兼光にルーツがあるとされる今井さんが、今も針原にたくさん住んでおられます。