彦根城と高知城、なぜ天守は残った〔8122〕2025/07/11

2025年7月11日(金)曇り
全国的に不安定なお天気になってます。で、昨日は彦根城だったので、今朝は高知城。「現存12天守」のうち、国宝は5つ。昨日の彦根城は羨ましいことに、「国宝」。
このページに、現存12天守の古さランキングがあります。これ見ると一目瞭然やけど、国宝に指定されているのは、藩政期初期に建てられたものばかり。17世紀前半に建てられた丸岡城ですら、国宝ではないんですね。
この美しい高知城の天守は、1747年に再建されたもの。高知では「高知城を国宝に」といった運動が行われているけど、なんとなく盛り上がりに欠けている感じがするのは、この、まだ前に4城あるという順番が影響しているからかも知れませんねー。
それにしても昨日の彦根城は、思ってたよりも大きかった。天守の大きさ、と言うより、城郭全体の大きさ。「湖東流紋岩」を中心に組まれた石垣は見事で、各所に配置された桝形などの仕掛けも美しい。
ところどころに花崗岩やチャートも見られる石垣。やはり、石垣というものは、その地でポピュラーな石で組まれるという常識が、彦根城でも見られました。今度ゆっくり、石積みだけを楽しんで来たいと思ったことでした。
で、国指定重要文化財である高知城は国宝を目指しておる訳やけど、国宝彦根城はと言うと、世界遺産を目指しているんですな。昨日通りかかった彦根商工会議所に、大きな垂れ幕が掲げられてました。そうか。世界遺産か。彦根城なら可能性あるかもね、などと昨日の彦根城を見て、思いました。
高知城は、この角度から見上げるのが一番有名。立派な立派な追手門と天守が同じフレームに入るのって、美しいよねー。
彦根城の天守が明治維新後も取り壊されず残ったのは、明治天皇が巡幸した際に、残すよう命じた為、とのこと。そしてそれを建言したのは大隈重信とのこと。大隈重信も明治天皇も偉かったね。
明治6年の「廃城令」や戦災などを潜り抜けて現在残っている12天守には、それぞれ、地元民の運動やら旧藩主の努力やらの様々なドラマがあります。
その中で、高知城の天守が残った理由、ドラマってのは、あまり出てこない。なんとなくスルリと残った感があるけど、実際はどうなんでしょうかね。全国の城が軍用施設となる過程で取り壊された中、高知城はいち早く「公園」として整備されたので、天守と本丸御殿は残された、という話。が、そこには、必ず、「残そう」という意思が働いたはずで、今度、調べてみんといけません。
夏の朝の高知城。そう言えば、まだセミが鳴き始めてません。そうか。普通なら、まだ梅雨の時期なのか。季節の感覚がずれてきてしまう、今日この頃。